第16話 百物語、知らない話を語る口
和ろうそくの細い炎が、ゆらり……ゆらり……と大きく横に歪んだ。
芯から立ち上る一本の細い黒煙が、天井の低く押し迫った漆黒の闇の中に静かに吸い込まれていく。
能登産のハゼの実の油脂から作られた本ろうそく特有の、甘く焦げくさい油の匂い。
その匂いが古びた畳の湿ったカビの臭気と混ざり合い、密閉された室内の濃密な空気をいっそう重く、息苦しく沈殿させていた。
四谷の細い路地裏、昔ながらの古い木造家屋が肩を寄せ合うように密集する地区の最奥に、その建物はひっそりと佇んでいた。
大正時代に創建された元料亭「黒鶴楼」の離れ。
格子窓はすべて厚手の黒い遮光カーテンで二重に固く覆われていた。
外界の車の騒音も街灯の明かりも一切遮断された十畳ほどの静かな仏間に、七人の男女が円座になって座っていた。
中央の畳の上には、黒漆塗りの大きな丸い台座に立てられた十本の和ろうそくが、妖しく揺らめく赤黄色の光を放っている。
フリーライターの飯田直樹は、じっと自分の膝元を見つめながら、浅い呼吸を繰り返していた。
飯田は怪談や都市伝説、全国の凄惨な事故物件を長年取材してきたオカルト専門のライターだった。
数々の不審死や失踪事件を追う中で、飯田は「四谷という土地に異常な密度で集積する怨念の磁場」に強く惹きつけられていた。
今夜、この四谷の離れで開催されているのは、江戸時代から伝わる伝統的な形式に厳格に則った「百物語の会」だった。
参加者は、主催者である飯田をはじめ、五十代の民俗学者で四谷の地誌に詳しい浅野、怪談マニアで古い記録や古書を集めるコレクターの大滝、病院の怪異体験を持つ夜勤看護師の小林、ネットで心霊スポットの検証動画を配信している二十代の女子大生・サキ、四谷の旧家出身で土地の古老である七十代の村上、そしてネットの怪談掲示板で募集に応じてやってきた、全身黒留袖を着て顔を黒い布で覆った名前すら明かさない謎の女の計七人だった。
百物語のルールは至って単純だ。
暗い部屋の中で参加者たちが順番に一つずつ怪談を語り、話し終えるごとに中央に置かれた和ろうそくの火を一本ずつ自らの息で吹き消していく。
百本目のろうそくが消えた時、本物の怪異が現れて語り手たちを異界へ連れ去ると古来より言い伝えられてきた。
今夜は簡易的な十夜の形式で行われていたが、五本目のろうそくが消されたあたりから、部屋の中の「空気の質」が明らかに異様な変化を見せ始めていた。
パチ、パチ……と、和ろうそくの木芯が爆ぜる乾いた小さな音が、静寂に沈む部屋に虚しく響く。
ろうそくの火が一本、また一本と減っていくたびに、周囲の闇が物理的な質量と重圧を持って押し寄せてくるような錯覚に襲われた。
最初は広々として見えた十畳の仏間が、まるで左右前後の壁がじわじわと内側へ狭まってきたかのように感じられる。
空気は冷たく重くなり、呼吸すら苦しくなるほど密閉された黒い箱の中に閉じ込められたような圧迫感があった。
参加者たちの顔半分は深い漆黒の陰影に沈み、障子や壁に投影された人影は、巨大な不気味な怪物の影となって天井へ這い上がっていた。
「……では、次は私が語らせていただきます」
飯田の右隣に座る、民俗学者の浅野が静かに口を開いた。
浅野の声は、先ほどまで学術的な議論をしていた知的で朗らかなトーンとはまるで違っていた。
どこか掠れ、喉の奥が乾ききったような無機質で冷たい声だった。
「これは……私にある東北の古い農村で取材した話なのですが……」
浅野が滔々と語り始めたのは、ある資産家の一族が、過酷な大寒波と疫病が襲った年に、外から嫁いできた身寄りのない若い女を「人柱」として屋敷の離れの床下に生きたまま埋め殺したという、悲惨な怪談だった。
だが、その語りを聴いていた飯田の背筋に、ぞわりと恐ろしい違和感が走った。
おかしい。あまりにもおかしい。
浅野が語っている内容は、浅野自身が以前執筆した論文や取材ノートのどこにも載っていないはずの話だった。
それどころか、浅野が口にしている「四谷の旧家の名」や「作造という男の裏切り」、被害者の女が死に際に叫んだ「家を返せ」という呪詛の言葉の細部に至るまで、なぜか飯田には強烈な「見覚え」があった。
それは、飯田が以前、四谷の別の事故物件を取材した際に、関係者の遺品である古い手帳から読み取った、見知らぬ他人の惨劇の記憶そのものだった。
浅野は一度もその四谷の事故物件に行ったこともなければ、飯田がその取材メモを浅野や他の誰かに見せたことも一度もないはずだ。
(なぜ、浅野先生がその話を知っているんだ……? 一度も誰にも話したことがない、俺しか知らないはずの極秘の記録だぞ……?)
飯田の喉が激しく乾き、嫌な汗が額からダラダラと滴り落ちた。
浅野の瞳を見ると、焦点が完全に結ばれておらず、ガラス玉のように薄暗く濁っていた。
まるで自らの意思で喋っているのではなく、何者かに喉と舌を乗っ取られ、無理やり言葉を吐き出させられているかのように。
「……そして、その床下に埋め殺された女は、五十年に一度、その一族の血を引き継ぐ若い女の命を――」
浅野の声が、物語の恐ろしいクライマックスに差し掛かった、その時。
「――命を、床下の泥の中から伸ばした無数の黒い髪の毛で、井戸の底へ引きずり降ろすのだ」
突然、浅野の言葉を遮って、別の声が静寂を切り裂いて響いた。
浅野の斜め向かいに座っていた、若い女子大生のサキだった。
サキは俯いたまま、浅野が語っていた怪談の「結末」を、先回りしてスラスラと喋り出した。
その声は、サキ自身の可愛らしい甲高い声ではなかった。
何十年も湿った土の下に埋もれていたかのような、泥臭く掠れた、見知らぬ中年女性の怨嗟の声だった。
「サ、サキさん……!? なんで君がその結末を知ってるんだ……!?」
怪談コレクターの大滝が、引きつった声を上げて身を乗り出した。
だが、サキは問いかけを完全に無視し、感情のない顔のまま言葉を続け、最後にクク……と不気味な薄笑いを浮かべた。
浅野は口をぐぐぐと大きく開けたまま、自分が語っていたはずの物語を他人に横取りされ、全身を硬直させて呆然と固まっている。
その瞬間、飯田は「百物語」という行為の真の本質、その底知れぬ恐ろしさに思い至り、全身の血が瞬間的に凍りついた。
怪談とは、単なる過去の出来事の記録や、人々の暇つぶしの娯楽物語などではなかった。
言葉として声に出し、他者の耳へと聴かせることによって、死者の無念や怨念の波動を他者の脳と魂へと感染させる【呪いの伝染システム】そのものだった。
語る者は、自らの口と喉を怨念の増幅器として死者に差し出し、聴く者は、その物語を脳に刻み込まれることで怪異の新たなターゲットとなる。
ここでは、誰がどの怪談を知っているかなど何の意味もなかった。
この暗い部屋に満ち始めた怨念のシステムが、参加者たちの口を勝手に使い、過去に四谷の土地で起きた凄惨な罪や怨念の記憶を、次々と現実世界へ実体化させて引っ張り出していたのだった。
「あ……ああ……」
サキが語り終えると同時に、七本目の和ろうそくの火が、ふっと誰の息も吹きかけられていないのに自ら消えた。
部屋の明かりは、ついに残り三本となった。
急激に部屋が暗くなった。
いや、単に光が減っただけではない。
漆黒の暗闇そのものが生き物のように膨張し、参加者たちの背中や肩にドスンと重くのしかかってきた。
畳の面積が物理的に収縮しているかのように感じられた。
隣の参加者との距離が不自然に近くなり、互いの引き攣った呼吸音と、鼓膜を打つ心臓の狂った鼓動だけが狭い暗闇の中に響き渡る。
障子や壁に映る人影の輪郭が、禍々しく歪み始めていた。
座っている参加者たちの影の頭部に、角が生え、長い髪が伸び、首が不自然なくの字に折れ曲がっていく。
それは、これまでこの「四谷路地裏二十夜怪談」で語られてきた、過去の怪異の犠牲者たちの影だった。
「もうやめましょう! この会は異常だ! 中止にしましょう! 俺は帰ります!」
耐えかねたコレクターの大滝が悲鳴を上げて叫び、立ち上がろうとした。
だが、大滝の膝はガクガクと激しく震え、畳からわずか数センチ浮き上がっただけで、ドサリと無残に崩れ落ちた。
大滝の脚に、畳の隙間から伸びた見えない何十本もの冷たい手が縋り付いていた。
大滝の口が、本人の意思とは完全に無関係に、ガチガチと歯を鳴らしながら勝手に動き始めた。
『……八本目の話をしよう……四谷の古いアパートの障子に映る、首の折れた女の話だ……前の住人が首を吊ったあの部屋で……』
大滝の口から飛び出したのは、大滝自身が体験したこともない、「灯り障子の首女」の悲惨な事故物件の内容だった。
大滝は両目を見開き、恐怖にボロボロと涙を流しながらも、自分の口が勝手に喋り続けるのを止めることができない。
語ることで、呪いが伝染する。
語ることで、一度この四谷で起きた惨劇が、この狭い部屋の中に完全な現実として蘇っていく。
「やめろ……喋るな……耳を塞げ……!」
飯田は自分の両耳を掌で強く塞ぎ、目を固く閉じた。
だが、声は耳からではなく、直接頭の芯、意識の深層へと染み込んでくる。
大滝が物語を語り終えると同時に、八本目の和ろうそくがパチンと音を立てて消えた。
続けて、九本目の和ろうそくも、吸い込まれるようにスーッと消えた。
部屋を照らすのは、ついに最後の一本となった和ろうそくの、消え入りそうな小さな赤黄色の灯火だけとなった。
闇は完全に部屋を支配していた。
壁も、天井も、出口のドアも消え去り、七人の参加者たちは漆黒の狭い箱の中に閉じ込められているかのようだった。
ろうそくの小さな炎の周りに、無数の「黒い影」が集まっていた。
白黒写真で顔を削られた男、画面の端に映る白い影、毒殺されたセーラー服の男の子、井戸の底から這い出る着物の女、狐面を着けた一族の死者たち……。
過去に語られたすべての怨霊たちが、最後の一本を取り囲み、冷たい吐息を吹きかけている。
飯田は震える手で、最後の一本のろうそくを見つめた。
円座の正面に座る、名も明かさない「謎の女」が、ゆっくりと顔を上げた。
女の顔には、目も、鼻もなかった。
ただ、白塗りされた顔の中央に、三日月のように歪んだ不気味な赤黒い「口」だけがぽっかりと開いていた。
その口元が、クス……クス……と嘲笑うように動いた。
飯田の口が、うっと熱を帯び始めた。
自分の意思とは完全に無関係に、顎がガクガクと動き、舌が滑り出す。
飯田の喉から出たのは、飯田自身の声ではなく、この部屋を満たす無数の怨霊たちの重なり合った死者の声だった。
『……さあ……最後の一話を語ろう……この四谷の離れに集まった……七人の愚かな語り手たちが……暗闇の中に消えていった話を……』
飯田の手が、自らの意思を離れてゆっくりと伸び、最後の一本の和ろうそくへと近づいていく。
揺らぐ炎の中に、無数の怨霊たちの歪んだ笑顔が映し出されていた。




