第17話 語り部はどこにいるのか
シャー……カサ……カサ……。
無機質で重い磁気ノイズの奥から、かすかな音が聞こえていた。
カセットテープが回転する小さな機械音と、湿った古い木造家屋が軋む音。
そして・・呼吸音。
浅く、途切れ途切れの、冷たい女の呼吸音。
中堅出版社「音羽書房」の文芸編集部。
深夜二時を過ぎたフロアは、無機質な蛍光灯の白い光に照らし出され、恐ろしいほど静まり返っていた。
デスクの上のパソコン群は黒い画面のまま眠りにつき、時折、空調の送風口が微かな唸り声を上げるだけだった。
編集者の長谷川重樹は、自分のデスクの上で、古びたポータブルカセットレコーダーの小さなスピーカーに耳を押し当てるように近づけていた。
レコーダーは、半年前、この「四谷路地裏二十夜怪談」という連作怪談企画を立ち上げた直後に突然消息を絶った新人編集者・秋山美波のデスクの引き出しの奥から見つかった。
美波は第1話のアパートで謎の失踪を遂げ、警察の捜査も立ち消えとなっていた。
長谷川は彼女が遺した未完の企画を引き継ぎ、四谷の土地で相次ぐ不審死や住民たちの連続失踪事件の取材を一人で続けていた。
ノイズの奥から、磁気テープの擦れる雑音を切り裂くように、低い女の声がヌッと立ち上った。
『……この土地には……語り部が必要なの……人間の隠した罪を……怨念を……語り継ぐ口が……』
ゾクッと、長谷川の背筋に氷の針を刺されたような戦慄が走った。
美波の声ではない。
もっと掠れた、何十年も湿った暗闇の中に放置されていたような、冷たく乾いた見知らぬ女の声。
長谷川は震える指先でレコーダーの停止ボタンを押した。
ガチャリと無機質な金属音が静寂に響き、オフィスに再び静寂が戻る。
長谷川の手元には、レコーダーと共に美波の引き出しの奥から発見された、一冊の古い革張りの手帳があった。
黒革の表紙は長年の手垢と脂で不気味に黒ずみ、四隅の角がボロボロに擦り切れていた。
だが、不可解なことに、この手帳は美波の字で書かれたものではなかった。
手帳の最初のページには、大正時代の古い筆致で文字が記されており、そこから昭和、平成、令和に至るまで、時代ごとに異なる筆跡とインクで、四谷周辺で起きた凄惨な事件や人々の不気味な失踪劇が事細かに記録されていた。
明治三十年の富豪の一族不審死。
大正末期の若い女性の連続行方不明。
昭和二十年代の離れでの病死隠蔽事件。
昭和五十年代の空き家での一家心中。
そして、現代の美波や、写真サークルの女子大生、不動産屋の男たちの相次ぐ失踪。
時代も背景もまったく異なるそれらの惨劇の記録の最後には、必ず同じ一つの目撃証言が、共通のフレーズで書き残されていた。
『現場の路地裏に、黒い着物を着た女が佇んでいた。女は顔の下半分を影で隠し、暗がりの中で三日月のように口元を歪めて薄く笑っていた』
「語り部……」
長谷川は固い声で呟いた。
これまで長谷川自身が取材してきた「四谷路地裏二十夜怪談」のすべての怪異の現場の陰に、この「薄く笑う女」の影があった。
彼女は何者なのか。
怪異そのものなのか、それとも死者の怨念をこの世に繋ぎ止め、人々に伝染させるための媒介者なのか。
長谷川は黒革の手帳をジャケットの胸ポケットに深々と押し込み、椅子から立ち上がった。
居ても立ってもいられなかった。
手帳の最後に記されていた住所・・四谷の路地裏の最奥、かつて古い井戸や料亭が存在した、あの暗い街区へと向かう決意を固めた。
深夜の四谷の旧市街は、昼間の都心の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
近代的なオフィスビル群からわずかに一本入っただけで、そこには大正や昭和の面影を残す黒ずんだ木造家屋が肩を寄せ合うようにひしめいている。
等間隔に立つ古びた街灯が、湿ったアスファルトの上にぼんやりとした黄色い光の斑点を作っている。
長谷川は、革手帳に記された地図と古い記憶を頼りに、入り組んだ迷路のような細い路地裏へと足を踏み入れた。
古い木造アパート、崩れかけた板塀、雑草が生い茂る放置された空き地。
これまで長谷川が取材してきた怪談の現場が、まるで散り散りになったパズルのピースのように、この暗い路地の周囲に不気味に集まっていた。
第1話のアパート、第11話の作造の旧家、第14話の古井戸の新築現場、第16話の料亭の離れ……。
歩みを進めるにつれ、路地の空気が異様に重く、冷たくなっていった。
真夏の夜だというのに、吐く息がうっすらと白くなるほどの強烈な寒気が首筋を撫でる。
ペタ……ペタ……。
長谷川の革靴の音に混ざって、背後からかすかな「別の足音」が聞こえる気がした。
引き返す足音ではない。
濡れた布を引きずるような、静かで湿った足音。
「誰だ……? 誰かいるのか……?」
長谷川は足を止め、勢いよく振り返った。
街灯の光の届かない路地の闇。
そこには誰もいない。
ただ古いブロック塀と枯れた紫陽花が夜風に揺れているだけだ。
だが、耳を澄ますと、あのカセットテープと同じノイズが空間を満たしていた。
シャー……カサ……カサ……。
どこからともなく、古いラジオのチューニングがズレたような磁気ノイズが空気に混ざり始める。
長谷川のジャケットのポケットの中で、ポータブルカセットレコーダーが、スイッチを入れてもいないのに勝手に起動、カタカタとモーター音を立てて回転し始めた。
「なんだ……!?」
長谷川は慌ててポケットからレコーダーを取り出した。
割れたスピーカーから、激しい雑音と共に、長谷川自身の過去の声がはっきりと流れ出してきた。
『……志津江、すまない……俺には仕事があるんだ……今の俺に君と子供を養う余裕なんてないんだよ……!』
長谷川の全身の血が、瞬間的に引いていった。
それは、十年前、長谷川がまだ下っぱの貧乏編集者だった頃の記憶だった。
当時、同棲していた恋人の志津江。
彼女が妊娠したと打ち明けた時、自分の将来のキャリアと保身を最優先にした長谷川は、彼女に冷い言葉を浴びせ、手切れ金のような金を置いて、逃げるように彼女を捨てたのだった。
その後、志津江が四谷の古い木造アパートの一室で、貧婚と病苦の中で誰にも看取られず孤独死したことを、長谷川は風の噂で知った。
だが、彼は自らの罪から目を背け、「忘れたこと」にして今日まで生きてきた。
『……長谷川さん……あなたは忘れていたのね……』
レコーダーの激しいノイズの中から、志津江の声が聞こえた。
『……あなたが捨てた私を……あなたが殺した私たちの子供を……』
「やめろ……! やめてくれええっ!」
長谷川は錯乱し、レコーダーを地面のアスファルトへ叩きつけた。
プラスチックの筐体が木端微塵に割れ、磁気テープがびろりと飛び散った。
しかし、音は止まらなかった。
暗い路地の壁から、地面の赤土から、湿った空気全体から、志津江のすり泣く声と怒号が反響して押し寄せた。
路地の奥の暗闇から、すーっ……と一人の女の影が歩み寄ってきた。
黒い古い和服を纏い、細い肩をすくめた女。
街灯の薄黄色の光が、ゆっくりと女の顔を照らし出した。
長谷川は息を呑み、腰を抜かして地面にドサリと倒れ込んだ。
志津江だった。
十年前、自分が冷酷に捨てた、あの志津江だった。
だが――志津江の顔は、人間のものではなかった。
目も、鼻も、眉も、皮膚の上に存在しなかった。
白塗りされた滑らかな皮膚の中央に、真っ赤な口だけが、三日月のように耳元まで大きく歪んで裂けていた。
その三日月の口から、黒い血のような液体がダラダラと垂れ落ちていた。
『……私は語り部……この四谷の土地の怨念を……あなたの隠した罪を……語り継ぐ口……』
三日月の口が、奇妙な角度に歪みながら動いた。
語り部とは、特定の幽霊や怨霊ではなかった。
この四谷の土地に生きる人間たちが、自らの保身や強欲、エゴのために裏切り、殺し、捨ててきた弱者たちの怨念が、罪を犯した者のトラウマと融合して生まれる「怪異の集大成」だった。
語り部は、自らの惨劇を人々に語らせ、伝染させることで、この世に永遠に存在し続ける。
「志津江……すまなかった……俺が悪かった……許してくれ!」
長谷川は地面に額を強く擦り付け、ガタガタと全身を震わせながら謝罪した。
だが、語り部の女は、無感情のまま長谷川の前にすーっとかがみ込んだ。
氷のように冷たい指先が、長谷川のアゴをすっと持ち上げた。
三日月の口が、長谷川の耳元に極限まで近付く。
『……さあ……次は……あなたが語る番よ……』
カチリ。
長谷川の喉の奥で、何かが接続された音がした。
喉が激しく熱を帯び、自らの意思とは無関係に、長谷川の舌が滑り出した。
長谷川の口から飛び出したのは、長谷川自身の声ではなく、何十人もの死者たちの重なり合った死者の声だった。
『保身のために女を捨てた愚かな編集者が……四谷の路地裏で語り部に取り込まれて消えた話を始めよう……』
長谷川は涙を流しながらも、自らの口が紡ぐ恐ろしい物語を止めることができなかった。
彼の意識は、暗いカセットテープの磁気ノイズの中へと、ゆっくりと沈み込んでいった。
翌朝。
音羽書房の編集部。
出社してきた後輩の新人編集者が、長谷川のデスクの上に置かれた無造作なカセットレコーダーに気づいた。
「あれ? 長谷川さん、今日も出社してないの……?」
後輩は不思議に思いながら、レコーダーの再生ボタンを押した。
シャー……という激しいノイズの奥から、長谷川の掠れた声と、暗闇で三日月のように笑う女のクク……という笑い声が聞こえてきた。




