第18話 何度も消えるあの一話
カタカタ、カタカタ、カタカタ……。
深夜の静まり返ったオフィスに、無機質なキーボードのタイピング音だけが虚しく響いていた。
薄暗い編集部の中で、二十七インチの大型液晶モニターが青白く発光し、デスクの上に放置された冷めきったブラックコーヒーの表面にゆらゆらと青い光を反射させている。
中堅出版社「音羽書房」の文芸編集部。
深夜二時半を回ったフロアは、まるで巨大な墓場のように静まり返っていた。
デスクの上に整然と並ぶパソコン群は黒い画面のまま眠りにつき、時折、天井の空調の送風口が微かな唸り声を上げる以外は、死のような重い静寂がフロア全体を隙間なく支配していた。
編集者の吉野崇は、赤く充血した目をしてモニターの画面を食い入るように睨みつけ、乾いた音を立ててキーボードを叩き続けていた。
吉野は、半年前に四谷の古いアパートで謎の失踪を遂げた新人編集者・秋山美波、自由業のライター・飯田、そして先週突如として消息を絶った先輩編集者・長谷川の後を引き継ぎ、書籍化企画『四谷路地裏二十夜怪談』の全原稿を完成させるべく整理作業を行っていた。
美波と長谷川が遺した古い手帳、カセットテープの文字起こしデータ、そして社内サーバー内に残されていた取材テキストを集め、全二十話の単行本原稿として一本化する最終校正作業。
作業自体は非常に順調に進んでおり、第1話の「灯り障子の首女」から第17話の「語り部はどこにいるのか」までのテキストは完璧に校正され、綺麗なファイルとして整然と揃っていた。
だが・・たった一つ、不可解きわまりない恐ろしい異常事態が発生していたのだ。
「・・また消えている。一体どうして・・」
吉野は途方に暮れ、額から吹き出る嫌な冷や汗を手の甲で拭った。
第18話だ。
何度ファイルを新規保存しても、PCやサーバーを再起動しても、フォルダーの中の『第18話_原稿.docx』というファイルだけが、数分経過すると勝手に容量「0バイト」の空ファイルに化けるか、あるいは複雑に文字化けした赤字のノイズファイルに化けて、打ち込んだ文章が跡形もなく消滅してしまう。
ハードディスクの物理的なセクター不良や、未知のコンピュータウイルス感染、あるいはクラウドストレージへの同期エラーを疑った。
だが、IT管理部門のツールで確認しても、同じフォルダーに入っている第1話から第17話のファイルには何の異常も検出されなかった。
第18話のファイルだけが、まるで目に見えない何かに拒絶されるように、あるいは現実に存在するのを拒むように、何度書き直しても跡形もなく消え去ってしまう。
「おかしい……さっき確かに三千字以上の文章を完璧に打ち込んだはずなんだ……」
吉野はイライラと爪を噛み、新規テキストファイルを作成した。
美波の引き出しから見つかった古い黒革の手帳を開き、そこに記されていた第18話の粗い取材メモを元に、一からキーボードで原稿を打ち直し始めた。
カタカタ、カタカタ……。
『第18話 何度も消えるあの一話。四谷の古いオフィスビルで、夜遅くまで原稿を編纂していた編集者はまだ気づいていなかった。自らが編纂している怪談が、すでにフィクションではなく現実に侵食していることに・・』
そこまで打ち込んだ時だった。
突然、PCのスピーカーから、ブツン!という耳を刺す不快な電気ノイズが鳴り響いた。
液晶モニターの画面全体が、一瞬で禍々しい青一色・・いわゆるブルースクリーンになった。
「うわっ!? またクラッシュかよ!」
吉野は悲鳴を上げて頭を抱えた。
保存していないテキストがまた消えてしまった。
だが、次の瞬間、ブルースクリーンの青い画面の中央に、血のように赤黒いテキストが、一行ずつゆっくりと自動でタイピングされ始めた。
吉野の手はキーボードから完全に離れていた。
吉野の両手は膝の上でガタガタと震えていた。
それなのに、画面の赤字は、まるで透明な何かがキーを叩いているかのように、カツン……カツン……という乾いた打鍵音と共に増えていく。
『……吉野崇は、冷め切ったコーヒーカップに手を伸ばそうとして、その手を途中で止めた』
「っ……!?」
吉野は息を飲み、伸ばしかけた右手を空中へ凍りつかせた。
今まさに自分がやろうとしていた動作が、リアルタイムで画面上に文字として実況されていた。
画面の赤字は、吉野の恐怖を嘲笑うかのように、さらに速度を上げてタイピングを続けた。
『……吉野の右手が恐怖で激しく震え、デスクの上のマウスが床へ落ちてカタンと乾いた音を立てた』
カタン!
画面のテキストと同時に、吉野の右手に当たったマウスが床へ落ち、乾いた音を立てた。
吉野の全身からドッと嫌な汗が噴き出した。
『……吉野は生唾を飲み込み、自分のデスクの背後にある暗い窓ガラスの反射を恐る恐る振り返った』
心臓が破裂しそうなほど激しく跳ね上がった。
背後。
吉野のデスクのすぐ後ろには、深夜の街を見下ろす大きな窓ガラスがある。
見たくない。
振り返ってはいけない。
直感が狂ったように警鐘を鳴らしている。
しかし、自らの首が、まるで目に見えない糸で操られているかのように、ギギギ……と音を立ててゆっくりと後ろへ旋回した。
黒い窓ガラス。
そこに、青白く光るモニターと、顔を蒼白にした吉野自身の姿が映っていた。
そして・・吉野の背後、すぐ肩の真後ろの暗闇に。
黒い古い和服を纏った、背の高い女の影が立っていた。
女の顔には目も鼻もなく、白塗りされた皮膚の中央に、三日月のように耳元まで大きく歪んで裂けた真っ赤な口だけがぽっかりと開いていた。
その三日月の口の周りに、過去の犠牲者たち・・第1話の首女、第11話の顔を削られた男、第14話の古井戸の女、第16話の百物語の語り手、第17話の長谷川の影が、オフィスのパーテーションの陰からぬっと顔を覗かせていた。
三日月の口が、クス・・クス・・と嘲笑うように蠢いていた。
「ひいいいいっ!」
吉野は悲鳴を上げ、椅子ごと転倒して床に倒れ込んだ。
尻餅をつき、必死に後ずさりながらモニターを見上げた。
赤字のタイピングは止まらない。
画面の文字がさらに狂ったような速度で打ち込まれていく。
『・・吉野は腰を抜かし、床を這い回りながら、自分がフィクションだと思っていた『四谷路地裏二十夜怪談』の真実に気づいた。
この怪談集は過去の記録ではない。
この四谷の土地が生き延びるために、物語を読む者、編集する者を一人ずつ引きずり込み、二十話の完成に向かって生きている怪異そのものであるということに』
「嘘だ、嘘だろ・・俺はただ、原稿をまとめていただけだ!」
吉野は叫んだ。
フィクションと現実の境界が、完全に崩壊していた。
彼がこれまでPC上で整理していた怪談は、すべてはこの四谷の土地が人間を呑み込むために用意した「生きている物語」だった。
そして、第18話とは、過去の事件などではなく、今まさに吉野自身がこのオフィスで消去される惨劇そのものだった。
だから何度書き直しても、吉野自身が結末を迎えるまで、ファイルは消え続けていたのだ。
『・・吉野の首筋に、冷たい手が触れた。語り部の女が、三日月の口を吉野の耳元へ近づける・・』
画面の赤字通りに、吉野の首筋に氷のように冷たい無数の指先が絡みついてきた。
強烈なドブと腐敗した血の匂いが部屋を満たす。
頭上に、あの三日月のように裂けた口を持つ女が、すーっと覆いかぶさってきた。
『……さあ……吉野さん……第18話を完成させましょう……』
耳元で、何十人もの死者たちの重なり合った声が囁いた。
カチリ。
吉野の喉の奥で、何かが接続された。
吉野の指が、自分の意志を完全に離れ、倒れた椅子の脇にあったキーボードへと伸びた。
吉野の両手は、血を流しながら、猛烈な速度で自らの消滅をキーボードに打ち込み始めた。
カタカタカタカタカタカタッ!
画面のブルースクリーンが真っ赤に染まっていく。
吉野の身体が、足元からすーっと透明なノイズとなって削れていく。
声を出そうとしても、喉からは『第18話のテキスト』しか飛び出さない。
彼の記憶が、肉体が、存在そのものが、PCのデジタルデータの中に「文字」として吸い込まれていく。
『……こうして、編集者・吉野崇は、自らの最期を第18話として書き上げ、四谷の闇の中へ消えていった……』
最後の句点を打ち込んだ瞬間、カチリと自動保存の音が響いた。
吉野の姿は、オフィスから完全に消え去っていた。
翌朝。
音羽書房の編集部。
出社してきた別の編集者が、吉野の空のデスクと、点けっぱなしのPCモニターに気づいた。
「あれ? 吉野さん、今日も出社してないのかな……?」
編集者がマウスを動かすと、画面上に『四谷路地裏二十夜怪談』のフォルダーが開いていた。
そこには、昨日まで何度やっても0バイトになっていた『第18話_原稿.docx』が、綺麗な完成データとして保存されていた。
ファイルを開くと、そこには吉野崇が昨夜この部屋でどのように怯え、どのように闇へ消えていったかが、恐ろしいほど緻密な一人称の文章で綴られていた。
編集者はゾクリとして背筋を凍らせたが、その文章のあまりの美しさと迫力に魅了され、自らも第19話のキーボードに手を置いた。




