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見ているつもりが、見返されている 四谷路地裏二十夜怪談。日常を侵食する、因果と後悔が蠢く20の底知れぬ恐怖  作者: かーすけ


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19/20

第19話 最後の蝋燭を消したとき

 ふうっ……ふうっ……、ふうっ……。 

 密閉された暗い部屋の中で、かろうじて聞こえるのは、怯えきった人間たちの浅く荒い呼吸音だけだった。 


 四谷の細い路地裏の奥深くにひっそりと佇む、築八十年を超える古びた元料亭「黒鶴楼)」の離れ。 

 十畳ほどの静かな仏間に漂うのは、能登産のハゼの実の油脂からあつらえた本ろうそく特有の、甘く焦げくさい油の匂いと、古い畳の湿ったカビの臭気、そして・・何十年も地下深くの暗闇に封印されていたかのような、冷たく重い死臭の混ざり合った濃密な気配だった。


 中央の丸い黒漆塗りの木製台座の上。 

 かつて十本の赤黄色の明かりを眩しく灯していた和ろうそくは、九本までが既に誰の息も吹きかけられていないのに次々と不気味に自ら消え去り、ついに最後の一本だけが残されていた。 

 木芯の先端でゆらり……ゆらり……と横に大きく歪む、消え入りそうな小さな赤黄色の炎。 

 その細い炎から立ち上る一本の細い黒煙。

 天井の低く押し迫った漆黒の闇の中に、静かに、そして吸い込まれるように消えていく。


 円座になって座る七人の男女・・主催者であるフリーライターの飯田直樹、民俗学者の浅野、怪談コレクターの大滝、病院勤務の看護師の小林、検証動画を配信する女子大生のサキ、四谷の地元の古老である村上、そして全身黒留袖を着て顔を黒い布で深々と覆った名前すら明かさない謎の女。 

 彼らの顔半分は深い漆黒の陰影に沈み、障子や壁に投影された人影は、もはや人間の形をとどめていなかった。 

 影の頭部からは角のような歪んだ突起が生え、首は不自然なくの字に折れ曲がり、巨大な不気味な怪物の影となって天井へ這い上がっていた。


「……残り……一本……」 

 怪談コレクターの大滝が、ガタガタと歯を激しく鳴らしながら、喉の奥から掠れた声をしぼり出した。 

 大滝の膝は畳に固く縫い付けられたように全く動かず、脚には畳の隙間から伸びた見えない何十本もの冷たい手が縋り付いていた。

「やめよう……! 最後の一本を消したら、本当に俺たちは現世へ帰れなくなる……!」

 大滝の必死の訴えに、誰一人として答えることができなかった。 

 答えられないのではない。

 全員の喉が、熱く不気味な塊で強く塞がれ、口を開いて声を発することすら許されなくなっていた。


 ろうそくの火が減るたびに、周囲の闇が物理的な質量と重圧を持って押し寄せてくる感覚は、いまや極限に達していた。 

 十畳の仏間の四方の壁、天井、障子、畳の境界線が、まるで水に溶ける絵の具のようにすーっと透明に透け始め、その向こう側に底なしの漆黒の深淵・・四谷の土地が呑み込んできた無数の怨霊が蠢く異界が広がっていた。


 飯田は、自分がこれまで四谷の土地を取材してきた長年の記憶を脳裏に浮かべていた。 

 四谷という土地は、江戸時代から幾重もの複雑な坂道と迷宮のような路地裏が密集し、陽の当たらない谷底に無数の古い祠や寺院がひっそりと佇む場所だった。 

 開発が進んだ現代のオフィス街のすぐ裏側には、大正や昭和の木造建築が腐食したまま取り残され、まるで都市の深層に開いた漆黒の穴のように、異界の冷気が絶えず吹き溜まっていた。 

 人々が自分たちの保身やエゴ、強欲のために他者を裏切り、殺し、井戸や床下に捨ててきた凄惨な惨劇の数々。 

 それらの捨てられた弱者たちの無念の叫びが、この四谷の暗い土地の底に溜まり、いつしかひとつの巨大な意思へと成長していた。


 飯田は、参加者たちの表情を改めて見回した。 

 民俗学者の浅野は、焦点の結ばない瞳で自分の膝を見つめたまま、微動だにしない。

 看護師の小林は両手で顔を覆って小さく震えており、配信者の女子大生サキは口を半開きにしたまま、虚空を睨みつけていた。

 彼らは皆、自分たちの意志でこの百物語の会に参加したつもりでいた。

 しかし、本当は違っていた。

 彼らは最初から、この四谷の土地に溜まった怨念の磁場に引き寄せられ、最後の一本の和ろうそくを消すための「儀式の道具」としてこの離れに集められたに過ぎなかった。


 飯田は、この「黒鶴楼」という建物自体が持つ、いわく因縁についても思い出していた。 

 かつて大正時代、この離れで一人の芸者が豪商の男に毒殺され、その遺体が床下の赤土の中に生きたまま埋められたという事件があった。 

 その後、昭和の時代にもこの離れで怪死事件や精神に異常をきたす者が相次ぎ、いつしか廃屋として放置されるようになったという。 

 今夜、自分がこの離れを百物語の会場として選んだこと自体が、自分の意志ではなく、この土地の怨念によって仕組まれた罠だった。


 飯田は、過去に取材した数々の都市伝説や怪異の体験者たちの言葉を脳裏で反芻していた。 

 怪異に出会った人々の多くは、「最初は些細な違和感や気配から始まり、気づいた時にはすでに引き返せない深みへと落ちていた」と語っていた。 

 まさに今の飯田たちが置かれた状況そのものだった。 

 1本目のろうそくを吹き消した時、すでに逃げ道は絶たれていた。 

 暗闇は単なる光の欠如ではなく、生き物のように成長し、人間たちの精神と肉体をじわじわと蝕む冷たい毒そのものだった。


 飯田の視界の端で、古びた障子の紙が、パリ……パリ……と音を立てて細かくひひび割れ始めていた。 

 障子の木枠の隙間から、ドブの臭いのする湿った土の粒と、見えない冷たい気体が室内へ雪崩れ込んできていた。 

 部屋の柱は湿気を含んで黒く変色し、古い木材の表面に、まるで死人の皮膚に浮かび上がる斑点のような不気味なカビが急速に広がっていく。 

 十畳の空間そのものが、まるで腐敗していく巨大な生き物の胃袋の内部であるかのように、収縮と弛緩を繰り返していた。

 飯田の耳に、遠くの街鳴りや車の走行音はもはや一切届かなかった。 

 外界との接続は完全に切断され、この部屋だけが時間の流れから取り残された無重力の深淵に浮遊しているかのようだった。 

 呼吸をするたびに、肺の奥が冷たく凍りつき、血の巡りが急速に遅くなっていくのを感じた。


 静寂の中、どこからともなく水滴が滴る音が冷たく響いた。 

 ポチャン……ポチャン……。 

 どこか遠い古い井戸の底から響いてくるような、冷たい水音。

 続けて、湿った古着を引きずるペタ……ペタ……という足音が、円座を取り囲む暗闇の中から静かに近づいてきた。


 飯田は目を見開き、暗闇の奥を凝視した。

 闇の中から、一つ、また一つと、「影」が姿を現し始めた。

 白黒写真の中で顔を削り取られた男。

 障子の向こうで首を不自然に折って佇む女。

 新築住宅の畳の下の古井戸から泥を吹き吐く着物の女。

 毒殺されたセーラー服の男の子。

 狐面を着けた旧家の一族の死者たち。

 そして・・先週、この四谷の路地裏で消息を絶った先輩編集者の長谷川、昨日PCの前から失踪した編集者の吉野崇。

 さらには、半年前に第1話のアパートで最初に姿を消した、あの新人編集者・秋山美波の姿までもがそこにあった。


 失踪した者たち、過去に命を落とした者たち・・これまでこの「四谷路地裏二十夜怪談」で語られてきた、過去18話分のすべての犠牲者と怨霊たちが、最後の一本の和ろうそくを取り囲むように、車座の外側にズラリと立ち並んでいた。

「美波ちゃん……!? 長谷川さん……!?」

 飯田は心の中で悲鳴を上げた。

 美波の瞳はガラス玉のように薄暗く濁り、口元だけが歪んだ笑いを浮かべていた。

 彼らは生きている人間ではなく、すでにこの四谷の土地の怨念に取り込まれた「怪異の一部」となっていた。

 彼らの無数の視線が、円座の中心にある最後の一本の和ろうそくの火と、飯田たちの顔に注がれていた。


 その時、円座の正面に座っていた、全身黒留袖の「謎の女」が、ゆっくりと立ち上がった。

 衣擦れの音が、静寂の中に異様に大きく響く。

 女は細い指先を顔に当て、頭を覆っていた黒い布を、すーっと脱ぎ捨てた。

 障子を透過した薄暗い赤黄色の光が、女の顔を照らし出した。


 飯田の息が止まった。

 周囲の参加者たちから、言葉にならない息呑みの音が漏れた。

 女の顔には、目がなかった。

 鼻もなかった。

 眉も、耳の凹凸すらも存在しなかった。

 白塗りされた滑らかな磁器のような皮膚の中央に、ただ一つ――真っ赤な巨大な「口」だけが、三日月のように耳元まで大きく深く歪んで裂けていた。

 その三日月の口から、粘り気のある黒い血のような液体が、タラリ……タラリと畳の上に垂れ落ちていた。


『……ようこそ……二十夜怪談の終着駅へ……』

 三日月の口が、奇妙な角度に歪みながら、何十人もの死者たちの声が混ざり合った重厚な響きで語り出した。

『……私は語り部……四谷という土地が、江戸の昔から積み重ねてきた怨念の集合体……。人々は自分たちの保身やエゴ、強欲のために他者を裏切り、殺し、井戸や床下に捨ててきた……。その捨てられた弱者たちの叫びが、この土地の底に溜まり、ひとつの巨大な意思となった……』


 語り部の女は、冷たい視線(目はないが、全身でこちらを見つめている感覚)を参加者たちに向けた。

『……怪談とは、ただの暇つぶしの物語ではない……。人が口にし、他人が耳で聴くことによって、死者の無念と呪いを伝染させ、生き延びさせるための【呪いのシステム】なのだ……。あなたたちが語り、聴いたことで、四谷の怨念は完全にこの世に蘇った……』


 語り部の女が、ゆっくりと飯田の前へと歩み寄ってきた。

 畳を踏みしめる音すらしない、幽鬼のような足取り。

 女は氷のように冷たい手を伸ばし、飯田のアゴをすっと持ち上げた。

『……さあ……飯田さん……最後の一本の火を消しなさい……。あなたが火を消した瞬間、現世と異界を隔てる最後の障壁は消え去り、この部屋にいる全員が、物語の向こう側へと引きずり込まれる……』

「嫌だ……断る……! 俺は消さないぞ!」

 飯田は必死に首を振ろうとした。

 だが、体は指一本すら動かない。

 喉の奥でカチリと金属音が鳴り、飯田の首が、自らの意志を無視してゆっくりと前へ傾いていった。


 飯田の顔が、最後の一本の和ろうそくの炎へと極限まで近づいていく。

 揺らぐ小さな炎の中に、過去のすべての犠牲者たちの歪んだ笑顔と、三日月の口を持つ女の嘲笑が映し出されていた。

 飯田の唇が、すーっとすぼめられた。

 自分の呼吸ではない、胸の底から湧き上がる冷たい吐息が、吹き出されようとしていた。

「やめろ……! 吹くな……!」

 飯田の叫びも虚しく、口から冷たい息が吐き出された。


 ふっ……。

 最後の一本の和ろうそくの火が、静かに消えた。

 完全なる漆黒。

 次の瞬間、現世と異界を隔てていた最後の境界線が、音を立てて完全に崩壊した。

 十畳の仏間も、料亭の離れも、四谷の街も消失した。

 無数の冷たい手が闇の中から伸び、飯田、浅野、大滝、サキたちの肉体を捕らえ、底なしの暗闇の深淵へと一気に引きずり込んでいく。


「きゃあああああああっ!」「助けてくれええええっ!」

 絶叫が重なり合い、そして・・深い暗闇の中に吸い込まれて消えた。


 翌朝。 

 四谷の路地裏の突き当たり。昨夜まで存在していたはずの築八十年の料亭「黒鶴楼」の離れは、影も形も消え失せていた。

 そこにはただ、草の生い茂る古い空き地と、固く蓋をされた枯れ井戸がひとつ、ぽつんと残されているだけだった。

 朝の冷たい風が路地裏を吹き抜け、枯れ葉をカサカサと鳴らしていた。

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