第20話 四谷へ帰る道で振り向くと 完結編
パタン……。
分厚い単行本を閉じた乾いた小気味よい音が、深夜の静まり返った部屋の中に小さく響いた。
黒漆のような深く暗い装丁に、血のような真っ赤な箔押しで刻まれた題字『四谷路地裏二十夜怪談』。
あなたは、デスクの上のスタンドライトの仄暗い光の下で、ついにこの連作怪談集の全ページを読み終え、ゆっくりと深く重い息を吐き出した。
第1話の「灯り障子の首女」から始まり、第11話の「削られた顔」、第14話の「畳の底の井戸」、第16話の「百物語」、第17話の「語り部」、第18話の「何度も消えるあの一話」、そして先ほど読み終えた第19話の「最後の蝋燭を消したとき」。
全十九話にわたって綴られていたのは、四谷という歴史ある土地の陰に潜む、あまりにも凄惨で生々しい罪と怨念の記録だった。
新人編集者の秋山美波、先輩編集者の長谷川、吉野崇、そしてフリーライターの飯田直樹……。
取材に携わり、原稿を編纂し、怪談を語った者たちが、一人また一人と現世から影も形も消え去っていく凄惨な結末。
読み終えたあなたの胸の中には、単なるフィクションの娯楽小説を読み終えた後の一服の爽快感など、微塵も存在しなかった。
そこにあったのは、じわじわと皮膚の表面を這い上がってくるような、不気味で冷たい湿った寒気だけだった。
「……そろそろ、帰るか」
あなたは時計に目をやった。
時刻はすでに深夜二時半を大きく回っていた。
あなたは重い単行本を鞄の中に大事に仕舞い込み、部屋の明かりを消して静かに外へと出た。
深夜の四谷の街は、昼間の都心の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
近代的なオフィスビル群からわずかに一本入っただけで、そこには大正や昭和の面影を残す黒ずんだ木造家屋が肩を寄せ合うように密にひしめいていた。
等間隔に立つ古びた街灯が、湿ったアスファルトの上にぼんやりとした黄色い光の斑点を作っている。
あなたは、四谷駅へと向かう迷宮のような細い路地裏を、一人で足早に歩いていた。
夜風が湿った路地を吹き抜け、古いブロック塀の隙間に生えた雑草をカサカサと不気味に鳴らしている。
四谷という土地は、江戸時代から幾重もの複雑な坂道と迷宮のような路地裏が密集し、陽の当たらない谷底に無数の古い祠や寺院がひっそりと佇む場所だった。
開発が進んだ現代のオフィス街のすぐ裏側には、大正や昭和の木造建築が腐食したまま取り残され、まるで都市の深層に開いた漆黒の穴のように、異界の冷気が絶えず吹き溜まっていた。
人々が自分たちの保身やエゴ、強欲のために他者を裏切り、殺し、井戸や床下に捨ててきた凄惨な惨劇の数々。
それらの捨てられた弱者たちの無念の叫びが、この四谷の暗い土地の底に溜まり、いつしかひとつの巨大な意思へと成長していた。
あなたは、歩きながら単行本に書かれていた内容を反芻していた。
あの本に書かれていた怪談は、ただの昔話や作り話ではなかった。
人が口にし、他人が耳で聴き、文字として読むことによって、死者の無念と呪いを感染・拡散させるための「リアルタイムの呪いシステム」そのものだった。
全19話を読み終えたことで、あなた自身もすでにその呪いのネットワークの中に完全に取り込まれてしまっていた。
あなたは、四谷の街の不気味な静寂に肌が粟立つのを感じていた。
街灯の明かりは途切れがちで、古びた木造アパートの軒下からは、まるで誰かが息を潜めてこちらを覗き込んでいるかのような気配が漂っていた。
古い黒板、放置された自転車、枯れた紫陽花。
すべての景色が、単行本の中で語られていた惨劇の現場と不気味に重なり合っていた。
あなたが今歩いているこの路地自体が、過去の怪異たちが這い出してきた現世と異界の境界線そのものだった。
あなたは息を整え、四谷の路地裏の奥深くへとなおも歩みを進めた。
周囲の木造家屋の柱や壁は、湿気を含んで黒く変色し、古い木材の表面に、まるで死人の皮膚に浮かび上がる斑点のような不気味なカビが急速に広がっていくように感じられた。
路地全体が、まるで腐敗していく巨大な生き物の胃袋の内部であるかのように、静かな収縮と弛緩を繰り返していた。
あなたは、自分がなぜ今夜四谷の街に足を運び、この路地を歩いているのかさえ判然としなくなっていた。
最初は単なる散歩か、あるいは帰宅途中の抜け道のつもりだったのかもしれない。
しかし、四谷の土地に流れる怨念の磁場は、本を読み終えた人間を自ずと吸い寄せ、路地裏の深淵へと誘導していた。
足元の湿ったアスファルトからは、古びた土と腐敗した血の混ざり合った不快な匂いがほのかに立ち上り、鼻腔を突いた。
あなたは、耳を澄ますと、外界の遠い都会の喧騒が完全に消失していることに気づいた。
車の走行音も、電車の通過音も、風のさざめきすらも届かない。
世界からすべての光と音が削ぎ落とされ、あなたと四谷の路地裏だけが、時間の止まった深淵の中に孤立していた。
一歩足を踏み出すたびに、アスファルトの底から這い上がってくる冷気が、足首から膝、腰へと伝わり、全身の体温を急激に奪っていくのを感じた。
あなたは、暗い路地の脇に置かれた一輪の朽ちかけた黒い花に目を奪われた。
誰が供えたものかも分からないその花は、死者の手向花のように不気味に首を垂れていた。
そのすぐ脇のブロック塀には、指先で爪立てて引っ掻いたかのような、幾筋もの黒い線が刻まれていた。
ここで誰かが闇に引きずり込まれ、最後にもがき苦しんだ爪痕だったのだろうか。
考えれば考えるほど、あなたの心臓の動悸は早まり、冷や汗が背中を滑り落ちていった。
あなたの思考は、次第に自分自身のこれまでの人生の記憶や後悔へと引きずり込まれていった。
他人に対してついた些細な嘘、見捨てるように立ち去った過去の出来事、知らぬ間に誰かを傷つけていた罪悪感。
四谷の路地裏の闇は、そうした人間誰しもが持つ心の隙間や暗部を巧みに突き刺し、逃げ場のない罪悪感で精神を締め上げていく。
この土地が溜め込んできた怨念は、単なる他者の幽霊ではなく、あなた自身の心の中に眠る闇そのものと共鳴して実体化していた。
あなたは、自分が鞄に入れたあの黒い単行本の重みが、歩くたびに少しずつ増しているような異様な錯覚を覚えた。
まるで本自体が水分と血を含んで重くなり、あなたの背中にズシリと押し付けられているかのようだった。
紙に刷られた文字たちが、鞄の中で蠢き、解け合い、新たな怨念の物語を紡ぎ出しているのではないか。
恐怖に耐えかねたあなたは、鞄のベルトを固く握り締め、早足で路地を駆け抜けようとした。
あなたは、息を切らしながら路地の角を曲がった。
しかし、曲がった先にも、全く同じ湿ったアスファルトと黒ずんだ木造家屋の並びがどこまでも続いていた。
いくら歩いても四谷駅の明かりは見えてこず、まるで無限にループする脱出不能の迷宮の中に閉じ込められたかのようだった。
道幅は一歩一歩進むごとにジワジワと狭まり、左右のブロック塀が圧迫するようにあなたの肩へ押し寄せてきていた。
頭上の街灯の光が、チカッ……チカッ……と不規則に点滅を始めた。
光が消える一瞬の暗闇のたびに、路地の周囲の風景が変わっていた。
平成の新しい住宅の壁が大正時代の土壁へ、現代のアスファルトがぬかるんだ泥道へと先祖返りしていく。
四谷の街全体が、過去何百年分もの怨念が溜まった怪異の底へと沈み込んでいっていた。
どこからともなく、湿った古い畳が腐敗していくような、強烈な青くさい臭気が漂ってきた。
壁の隙間からは、目に見えないほど細かい粘着質な胞子が舞い落ち、あなたの肌や髪にくっついてじっとりと濡らしていく。
空気が急速に重くなり、呼吸をするたびに胸の奥が押し潰されるような圧迫感が襲いかかってきた。
あなたの足元で、何かがパキリと踏み折れる音がした。
見下ろすと、そこには古びた黒いカセットテープ(第17話)の破片と、無数の文字が擦れ消えた古い原稿用紙(第18話)が泥に塗れて落ちていた。
かつて取材者たちが遺していった悲痛な痕跡が、この路地の底に死骸となって転がっていた。
彼らもまた、今のあなたと同じように恐怖に怯え、叫びながらこの路地を逃げ惑った末に呑み込まれたのだろう。
コツ……コツ……コツ……。
アスファルトを叩く、あなた自身の靴音が静寂に響く。
だが、歩みを進めるにつれて、あなたの背後から、不自然な異音が聞こえ始めていることに気づいた。
あなたの靴音のすぐ後ろに、重なるようにして、かすかな「別の足音」が混ざっていた。
引き返す足音ではない。
濡れた古着を地面に引きずるような、静かで湿った足音。
ペタ……ペタ……ペタ……。
あなたは一瞬脚を緩めそうになったが、胸の中で激しい警鐘が鳴り響き、足を早めた。
気のせいだ。
徹夜で怪談本を読んだから、心が過敏になっているだけだ。
自分にそう言い聞かせ、前だけをしっかりと見つめて歩き続けた。
しかし、背後の異音は足音だけにとどまらなかった。
ポチャン……ポチャン……という、古い井戸の底から聞こえるような冷たい水滴の音(第14話)。
シャー……カサ……カサ……という、カセットテープの磁気ノイズの音(第17話)。
カタカタ、カタカタ……という、無機質なキーボードの打鍵音(第18話)。
そして、能登産のハゼの実の油脂が燃える、甘く焦げくさい油煙の匂いと濃密な死臭(第16話・第19話)。
これまで『四谷路地裏二十夜怪談』の各話に登場したすべての怪異の気配が、まるで巨大な津波のように、あなたの背後の暗闇からジワジワと押し寄せてきていた。
その時、ポケットの中のスマートフォンの画面が、バイブレーションも通知音もないのに、急に青白く発光した。
あなたが恐る恐る画面に目を落とすと、待ち受け画面の上に、血のように赤黒いテキストが、一行ずつ自動で実況入力されていた。
『……あなたは今、この『四谷路地裏二十夜怪談』の全話を読み終え、四谷の路地裏を歩いている……』
『……あなたが本を閉じた瞬間、現世と異界を隔てる最後の扉は開かれた……』
『……怪談とは、人が読み、知ることによって完成する「呪いの感染システム」なのだから……』
全身の血が瞬間的に引いていった。
あなたは理解した。
あの単行本は、単なる紙の印刷物ではなかった。
読者が本を開き、最後のページまで読み終えることによって、読者自身が「新たな感染者(器)」として怪異の世界へ接続されるための、巧妙に仕組まれた儀式の書だったのだ。
『……おい……振り向くなよ……』
突然、背後のすぐ耳元で、掠れた男の声が聞こえた。
先週失踪した先輩編集者・長谷川の声だった。
『……振り向いちゃダメだ……振り向いたら……お前が21番目の怪談になっちまう……』
続いて、昨日PCの前から消えた吉野の声が聞こえた。
『……ねえ……一緒に四谷へ帰りましょう……』
さらに、半年前に最初に失踪した新人編集者・秋山美波の澄んだ、しかし温度のない冷たい声が聞こえた。
背後には、秋山美波、長谷川、吉野、ライターの飯田、そしてこれまで命を落としたすべての犠牲者たちが、車座のように立ち並び、あなたの背中を静かに追ってきていた。
「ひっ……! うあああああっ!」
あなたは恐怖に絶叫し、前を向いたまま脱兎のごとく走り出した。
振り返ってはいけない。
絶対に後ろを見てはいけない。
直感が狂ったように叫んでいた。
振り向いた瞬間に、自分はこの世から存在を抹消され、次の読者が読むための「第21話の怪談」として本の中に閉じ込められてしまうだろう。
必死に足を動かし、路地を駆け抜ける。
前方の街灯の薄黄色の光が、アスファルトの上へあなたの影を長く引き伸ばしていた。
その自分の影を見て、あなたの心臓は凍りついた。
街灯の光に照らし出されたあなたの影のすぐ後ろに、頭部に角の生えた影、首の折れた影、三日月に口の裂けた影・・数十人もの不気味な黒い影が、あなたの影にピッタリと重ね合わさっていた。
逃げられない。
四谷の路地裏全体が、あなたを呑み込むための巨大な怪異の胃袋となっていた。
前方の路地の突き当たり。
古びた街灯の下に、一人の女の影が静かに佇んでいた。
黒い古い和服を纏い、細い肩をすくめた女。
女が、すーっとこちらへ向けて振り返った。
街灯の光が照らし出したその顔には、目がなかった。
鼻もなかった。
眉も、耳の凹凸すら存在しなかった。
白塗りされた滑らかな皮膚の中央に、真っ赤な巨大な「口」だけが、三日月のように耳元まで大きく歪んで裂けていた。
『……ようこそ……四谷へ……』
三日月の口が、極限まで歪みながら笑った。
『……さあ……次の物語を語るのは……本を読み終えた、あなたよ……』
カチリ。
あなたの喉の奥で、何かが接続された音がした。
あなたの身体から力が抜け、自らの意思を完全に離れて、顎がガクガクと動き出した。
あなたの口から飛び出したのは、あなた自身の声ではなく、何十人もの死者たちの重なり合った声だった。
『……第20話の話をしよう……『四谷路地裏二十夜怪談』を最後まで読み終え……四谷の路地裏で闇の中に消えていった……愚かな読者の話を……』
あなたの意識は、暗い単行本のページの隙間、漆黒の文字の海へと、ゆっくりと沈み込んでいった。
パタン……。
今、この画面で『四谷路地裏二十夜怪談』の第20話を読み終えた、あなたへ。
ふと、あなたの背後で、カサリと小さな音がしなかっただろうか?
絶対に、振り返ってはいけない。




