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16 元婚約者の涙

「あなた、こんなことまでしているのね」


 腕組みをしてパトリシアが私を見つめた。今日のパトリシアはメガネをかけている。つまり、本気で魔力を使うモードである、ということだ。


 晴れた空の下にいるが、空気は重苦しく、太陽が雲に隠れたかのように寒々しく感じた。


 私の洗濯棒を握る手に力が入る。いざとなれば、この洗濯棒が私の身を守る唯一の武器になるかもしれない。


 私はグッと利き足を前に出して、体勢を低く構えた。由緒正しいアンドレア皇太子の元婚約者は、美しいが偏屈な魔女だ。彼女の繰り出すのは同情を誘う涙だけではない。


 一瞬、私の頬の先を何かがかすめた。見えなかったが、蜂に刺されたような鋭い痛みを頬に感じて私は顔をしかめた。


 振り返ると、干したばかりの洗濯物が一気に炎に包まれていた、先ほどまで濡れていたはずなのに、全てが炎に包まれている状態だった。


「やめて!」


 私はパトリシアに叫んだ。


「あなたの気持ちはわかるのです!こんなことはやめて!」


 パトリシアは笑った。泣きながら笑っていた。


「どんなに頑張ったかあなたに私のことが分かる?アンドレア皇太子にこの私が好かれるために、信じられないくらい頑張ったのよ!」

「わかります。あなたの頑張りの方向が間違えていたとか、あなたが悪いとか、そういう話ではないのです!あなたは何も悪くないのです!あなたは今のままで完璧ですから!」


 私の言葉に、パトリシアは泣きながら顔をくしゃっと歪めた。


「何言っているのよ。私がダメだから、アンドレア皇太子をあなたなんかみっともない貧乏人に取られたのでしょう?婚約解消とか、婚約破棄とか意味が分からないのよ!私が何をしたって言うの……私がダメだから、アンドレアに好かれないから……」


 美しいメガネをかけた魔女は、風を起こして実家の母屋にまで火をまわそうとした。


 逆上しているあまりに、パトリシアは言っていることと、やっていることが違い過ぎてめちゃくちゃだ。


「待って!」

「待て!パトリシア!」


 私が悲鳴を上げるのと、リーヴァイがパトリシアを両腕を押さえ込むように抱き止めるのと、同時だった。


「やめるんだ、パトリシア。こんなことをしても何にもならない」


 私はパトリシアに駆け寄り、彼女の両頬を優しく包んで、メガネをそっと外した。彼女の美しい瞳から涙が後から後からこぼれている。


「火を消してくださるかしら。お願い、パトリシアさま。恋はタイミングなのです。あなたのタイミングは、今ではないというだけなのです。あなたが悪いのではなく、2人のタイミングの問題で、それがただずれただけなのです」


 私は18歳だが、皇太子妃になり、23歳で死んだ経験、20歳で死んだ経験がある。さらに前世で36歳まで生きて子供が3人いて、自力で子育てをして職場復帰に足掻いた経験がある。パトリシアが何も悪くないのはよく分かる。ただ、悪くないから恋が実るというものではない。努力に関係なく、単に人の心の問題だからだ。


「アンドレ皇太子はあなたのことを大切に思っています。いつか、必ず、あなたが、もしまだアンドレア皇太子のことが好きでしたら、きっとあなたの気持ちにアンドレを皇太子が応える日が来るでしょう」


 事実、その日が未来で来たから、未来で私は夫に捨てられた。本当にこれは嫌なことなのだが、これも人の心の問題なのだから、私にはどうしようもない。アンドレア皇太子は私と子供達を救おうとしていた、というのが分かれば、彼が私たちを大切に思っていたことが分かるから、私のささくれ立つ心が多少和らぐ。


「私がアンドレアを好きのままでいたら……?」


 私はそのパトリシアの問いかけに、黙ってうなずいた。できれば、パトリシアが他の人を愛して、他の人がパトリシアを愛する明るい未来が来てほしいと願っているが、そんなことは私がどうこうできることではない。


「私がアンドレア皇太子を好きでいていいの?」


 パトリシアの起こした炎が弱くなったように感じる。彼女の怒りが凪のように弱まったように思う。


「えぇ、パトリシアさまが好きなだけ、アンドレア皇太子を好きでいていいのですよ。それはあなただけの権利で、誰にも止められませんから」


 私は静かにパトリシアに言った。


「悪いことをしたわ。燃やしたものを再生する魔力は持っていないのよ」


 パトリシアはそう言って、炎を一瞬で止めてうなだれた。


「大丈夫だ。パトリシアは燃えたものを再生する必要はないよ。今日はショッピングに行こう。ジェニファー、君の会社にお金が入ったから」

「え?」


「ザックリードハルトの植民地側に宝石が移り、そこで公正な売買が行われた。イングランドはそこで価格の50分の一の金を君の父上と兄上に支払い、残りの金が一括でイングランド側から先ほど当家の金庫に運び込まれた。ドヴォラリティー伯爵家当主として、責任を持って預かる。事務所を設立しよう。それまでの間、半分は銀行に預けよう。今日は代表に支払われる金の一部を持ってきたんだ」


 リーヴァイ・ドヴォラリティー伯爵はパトリシアをがっちりと抱きしめたまま、笑った。


 1度目は皇太子妃になったが、実家の没落が食い止められたのは、私が悪事に加担したことでお金が支払われたからだ。2度目もそのシナリオだった。私は悪事に加担して皇太子妃に上り詰めて、命を狙われた。


 3度目の今は、リーヴァイ・ドヴォラリティー伯爵に支えられて、私は選択肢を変えた。行動を変えたのだ。悪事に加担せずに、メッツロイトン家の自力再生の道を選択した。


 これで未来が変えられると良いのだが、どうだろうか。


 過去と未来の交差点に佇む私は、アンドレア皇太子と再び結ばれる扉を開けて、メッツロイトン家そのものに財力を確保することを決定的にしようとしている。



「あなた、会社を起こしたの?」



 パトリシアは呆然とした様子で私に聞いてきた。


「えぇ」


 私は微笑んだ。嬉しくて嬉しくて、飛び上がりそうだった。私の背後では朝から一生懸命洗った洗濯物がみるも無惨な姿になっていたけれども。


「アンリの話と少し違うわね」


 パトリシアは小さな声でそう言って首を振った。霊媒師が占った未来はどうだか知らないが、私は3度目のやり直し中だ。行動を変えている。



 私はパトリシアにそっとメガネをかけてあげた。彼女は自分がやってしまった洗濯物の燃えカスをじっと見つめて、私に申し出た。


「私が燃やしたものは買って弁償しますわ」


 メガネをかけた偏屈魔女はツンと上を向いて、まだ込み上げてくるらしい涙を指先で拭った。パトリシアの指先には黒いススがついていて、それが彼女の頬と目尻に黒い後を作った。


「ええ、あなたにも手伝っていただきますわ。こういう時は何か仕事をした方が気が紛れますから」

 

 私はにっこりして彼女に断言した。


 昨日の敵は今日の友なのか。

 それとも、彼女は未来では、今日の友は明日の敵になるのか。

 

 時が止まったかのように没落の一途を辿るギルフォード・カースル5の再建に、パトリシアの力を一部借りようと私は決意した。


 彼女はそばに置いて常な動向を把握した方が良い人物だから。


 さあ、今日は生まれて初めての楽しいショッピングに行こう。




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