Ⅳ
幸せは人を不安にもするのだと、アナスタシアと過ごすようになって初めて知った。
「レティ?」
麗らかな午後の日差しの下、心地よい風に吹かれてぼんやりとしていたレティシアは、対面から投げかけられた声にハッと我に返った。
「どうなさったの? 今日の紅茶、お口に合いませんでしたか?」
「そんなことはありませんわ、アンナ様」
気遣わしげに眉をひそめるアナスタシアへ視線を置いたレティシアは、そっと苦笑を滲ませた。
「ただ、幸せだなと思っておりました」
「まぁ」
「予想していた以上に穏やかな日々を送れているので、何だかこんなに幸せで良いのかと、不安になってしまったのです」
正直に心の内を吐露すると、アナスタシアはティーテーブルの向こうで嬉しそうに顔をほころばせた。
アナスタシアと過ごすようになって、すでに一週間が経過している。王宮に迎え入れられ、アナスタシアの私室と続きの間に部屋を与えられたレティシアは、アナスタシアの庇護の下、想像していた以上に穏やかな日々を過ごしていた。
三度の食事と午後のお茶はどれも美味しくて、アナスタシアと並んで眠る寝台はいつでも温かい。
アナスタシアと寄り添って過ごす日々は、今まで過ごしてきたどんな時間よりも安らぐひと時だった。今は身辺警護を理由に限られた人々としか接していないが、誰もがレティシアを敬い、気遣ってくれていることが分かる。
アナスタシアが用意してくれた楽園は、何からもレティシアを守ってくれる。『レティ』『アンナ様』と互いを愛称で呼び合う関係はくすぐったくも魅惑的で、ひどく心が満たされるような心地がした。
だからこそ、不安になる。
この楽園の外では、今でも策謀が飛び交い、目まぐるしく情勢が変化しているはずだ。優しい目隠しでそれらを遮られ、自分の知らないところで全てが片付けられていくような気がして、それがレティシアにはひどく恐ろしい。
──守っていただけることも、慈しんでくださることも、とても嬉しいけれども。
無知で無力な存在ではいたくない。
アナスタシアのことを大切にしたいと。アナスタシアから注がれる気持ちに報いたいと。そう思っているからこそ、余計に。
「レティが幸せでいてくれること。それがわたくしにとっては、何よりも最優先事項ではあるのだけれども」
レティシアの言葉にニコニコと笑みを浮かべていたアナスタシアは、そっとレティシアの足元に視線を落とすと笑みの種類を変えた。何かを企んでいるような笑みは、アナスタシアが『聖女』の顔をしている時によく浮かべているものだ。
「レティ自身は、それで納得できる方ではありませんものね」
「申し訳ありません」
「責めてはおりませんわ。レティのそんなところも大好きですもの」
アナスタシアが視線を向けた先……レティシアが腰掛けた椅子の足元には、細身の剣が立て掛けられていた。レティシアがアナスタシアとともに王宮に住むと決まった時、実家から取り寄せたレティシアの愛剣だ。
レティシアは今、アナスタシアの護衛官も務めている。『せっかく自分は剣の腕があるので、良ければ役立てていただけませんか』とレティシアから願い出たことだ。
とはいえ、アルバートへの警戒を強めているアナスタシアは、ここ最近は外出も必要最低限に留めてなるべくレティシアと過ごすようにしている。レティシアによる護衛が必要なのは、神殿と王宮を行き来する時くらいだ。それでも抑止力の一端になればと、レティシアは動きやすいドレスに剣を佩いてアナスタシアの外出に付き従っている。
「わたくしの手の者と、バートネット公爵家の手の者で、協力して調査は進められております」
再びレティシアに視線を置いたアナスタシアは、表情を引き締めながら口火を切った。そんなアナスタシアに真っ直ぐに視線を据えて、レティシアはアナスタシアの言葉に耳を傾ける。
「今回のこの一件。黒幕達の目的は恐らく、バートネット公爵家を筆頭とした有力貴族の権威を削ぎ、支配の構図を崩すことにあると踏んでおりますわ」
アレスティア王国には三家ある公爵家の他に、いくつか権力を持つ家門がある。そのどれもが名門と呼ばれるにふさわしい歴史があり、新参者は力を得にくいというのが現状だ。
もちろん権力を持っていても無能ならば重用はされないし、家格が低い家の出身であっても有能と認められれば出世はできる。だが与えられる機会や、実際に登用された時の周囲の目というものを考えると、どうしても政治中枢には名門出身の人間が固まりやすい。
「リンゼル侯爵、と仰っておられましたよね?」
父とアナスタシアが話していた中に出てきた名前を口にしたレティシアは、小さく首を傾げた。
「リンゼル侯爵家も、名門と呼ばれる家のひとつだと認識していたのですが」
「現状に不満を持つ下級貴族達を自派に取り込み、密かに手駒として使っているのがリンゼル侯爵だと目しております」
アルバートが新たな婚約者に選んだソフィアは、リンゼル侯爵家と懇意なシルヴェン子爵の娘だ。
それ以外にも最近のアルバートは、これまで己を支えてくれていた側近達を遠ざけ、リンゼル侯爵派……明言こそしていないものの、裏でリンゼル侯爵家と繋がっていると目されている新興貴族家の者達を傍に置くようになったという。
──アルバート殿下は、決して出来が悪いわけではない。だけど飛び抜けて優秀と言えるほどの方でもない。
実妹のアナスタシアは生まれながらの聖女。さらにアルバートの周囲は『王太子の御学友』『未来の側近』という肩書きにふさわしい名門家出身の有望な同世代で固められていた。
そんな有能な彼らと比較されながら育ってきたアルバートは、常に心に劣等感を抱えている。レティシアが疎まれるきっかけとなったのも、恐らくは容姿や性格ではなく、剣や勉学の才を比べられ、劣っていると感じさせられたことにあるのだろう。
『王太子として常に皆より優秀であれ』と言われながらもそれを実現できなかった、というのがアルバートが抱く劣等感の根源だ。生まれながらにして家格と才覚に恵まれ、努力が相応の実を結んでいる側近達には、その劣等感を理解することはできない。
だが名門の陰に隠れて生きるしかなかった新興貴族の若者達は、その根幹に寄り添うことができる。アルバートは新しくすり寄ってきた彼らと自分の劣等感を重ね合わせ、すっかり意気投合してしまったのだろう。
それが策謀の一環だと、見抜くこともできずに。
──アルバート殿下の事情には、同情の余地もありますが。
為政者としては、愚かと言うより他にない。
「さらにリンゼル侯爵は、ルーベルス帝国と繋がっている噂もありますわ」
「問題の一番の肝は、そこですね」
「ええ。ルーベルスとアレスティアは、長年いがみ合ってきた仲ですから」
アレスティア王国から見て西方に位置するルーベルス帝国は、長年アレスティアと領土の奪い合いをしてきた一番の敵国だ。十年前に国境がレンス大河に定まってから表面上の衝突は起こっていないが、水面下では双方に相手の動きを探り合っている。
何かひとつでもきっかけがあれば、双方再び戦火を交えることも厭わない。そんな関係性なのがアレスティアとルーベルスだ。
「今のレンス大河には、聖女の力で障壁が展開されています。現状ではアレスティアを武力で正面から落とすことは難しいでしょう」
「そっ、そうなのですか?」
アナスタシアが口にした言葉に、レティシアは目を瞬かせた。
──『聖女の加護』というものは、そんな物理的な力を持っているものなのですか?
『聖女の加護によってアレスティア王国は護られている』というのは、アレスティア内部のみならず近隣諸国にまで広く知られた事実だ。それがアレスティア進攻を防ぐ一種の抑止力になっていることはレティシアも知っている。
だがそれは言ってしまえば心理的な枷……物理的には何ら効力はなく、侵すと天罰が降るとか、せいぜい激しく天候が崩れる程度のもので、具体的な防御力を備えた代物だとは思ってもいなかった。
「国防に関わる秘事ですので、わたくし達だけの秘密、ですよ?」
いたずらっ子のように微笑んだアナスタシアは、立てた人差し指を己の唇の前に置いた。そんなアナスタシアのお茶目な姿に、レティシアも無意識のうちにアナスタシアの動きを真似てしまう。
「実は、国軍のような集団が、『アレスティアを侵す』という悪意を以てレンス大河を渡ろうとすると、障壁が反応して悪意ある集団を弾くようになっているのです」
「そんなことが……」
「わたくしが神殿で捧げる祈りには、この障壁を維持強化する効能があります。フワッとした加護と、具体的な加護、両方をお願いしているのです」
聖女の力を説明するアナスタシアは、どこか得意げだった。胸の前で祈りを捧げるように両手を組み合わせたアナスタシアは、ニコニコと楽しそうに言葉を続ける。
「この祈りの力は、聖女の身に危険が迫れば、攻撃として用いることもできます」
「身を守るように障壁を展開できる、ということですか?」
「それはどちらかと言えば守備的な使い方ですわ。もっと攻撃に打って出るような使い方ができますのよ」
『もちろん、障壁の展開もできます』と胸を張るアナスタシアの愛らしさに、レティシアは思わず目元を和らげた。
だがすぐにあることに気付き、ハッと我に返る。
──ならばアンナ様に護衛は必要ないのでは?
もしかしてレティシアが『護衛官』と言い張って付き纏っているのは、アナスタシアには逆に迷惑になっているのではないだろうか。
アナスタシアが喜んで受けてくれたから気にしていなかったが、言われてみれば今までアナスタシアに専属護衛官がついていなかったこと自体が不自然だ。つまりその事実こそが『アナスタシアに護衛官は不要』ということを物語っているような気がする。
──いや、でも。歴代の『聖女の伴侶』の中には護衛官を務めた方もいらっしゃったという話だし……
「そういった状況ですので、ルーベルスも搦め手を用意してきたのでしょう。真正面から軍を送り込むのではなく、少数の間者を送り込み、内部崩壊を誘う方針ですわね」
モヤリ、としたものがレティシアの胸に生まれる。
だがその部分を詳しくアナスタシアに問い詰める暇は与えられなかった。
「民の行き来がある以上、全ての悪意を障壁で弾くことは不可能です。少人数で行動すれば、レンス大河の障壁は反応いたしません」
「つまり、密使や間者を送り込むことは可能である、と?」
「はい」
その密使がリンゼル侯爵と接触している、という情報がアナスタシアの手元にはあるのだろう。
──リンゼル侯爵は、ルーベルスと繋がって何がしたいの?
現体制に不満を抱く新興貴族を自派に引き入れ、アルバートの周囲に送り込んだ主犯がリンゼル侯爵である。
一旦そう仮定するとして、リンゼル侯爵の目的は何なのだろうか。アレスティアの貴族である以上、アレスティア王国が滅んだら困るのはリンゼル侯爵も同じであるはずなのだが。
「恐らく、協力の見返りに相応の地位を約束されているのでしょう。アレスティアがルーベルスに降った暁には、リンゼル侯爵をアレスティア領大公に任ずる、とか」
レティシアの疑問など、アナスタシアにはお見通しなのだろう。ヒヤリと背筋が冷えるような笑みを浮かべたアナスタシアに、レティシアは疑問を投げる。
「確信がありますか?」
「リンゼル侯爵の手元から具体的な証拠が出れば、国家転覆罪で法廷に引っ張り出せる程度には黒だと目しております」
答えるアナスタシアの声には自信が見え隠れしていた。やはりアナスタシアは確かな情報をすでに手元に得ているのだろう。
──すごい。
アナスタシアの傍にずっといるレティシアだが、アナスタシアがどうやって情報を得ているのかはいまだに分からずにいる。恐らくはレティシアに気を使わせないように、アナスタシアはあえてそういった姿を見せていないのだろう。
──もっとそういう姿を見せてほしいと願うことは、我が儘なことなのでしょうか?
またモヤリとしたものが胸中に広がるのを感じながらも、レティシアはアナスタシアの考えを伺うべく唇を開いた。
「どう動かしますか?」
含みのある問いに、アナスタシアが満足そうに笑みを深める。『レティならそう問いかけてくれると思っていたわ』という言葉が聞こえてきそうな笑みに、レティシアは己の予測がアナスタシアの考えとズレていなかったことを確信した。
──アンナ様が、このまま静観を決め込むはずがない。
この一週間、アナスタシアがレティシアとの蜜月を楽しむかのように引きこもっていたのは、何も相手の動きを警戒して防御を固めていたから、という消極的な理由だけではない。
アナスタシアは、あえて動かず先方を焦らすことで、先方がこちらに喰い付いてくる隙を誘っているのだ。
──有力貴族達と王族を分断し、中枢部の権力構造を変えることが目的ならば。
先方はまずアルバートとレティシアの婚約を破棄させることで、王族とバートネット公爵家に溝を作ろうとした。
レティシアに謂れもない冤罪をでっちあげることでバートネット公爵を陥れることに成功すれば、公爵家筆頭であるバートネット公爵家の権威を削ぐことができる。
他の有力貴族家からつけられていた側近達はすでにアルバートから遠ざけられており、空いた席にはリンゼル侯爵派の若者達がついている。レティシアとの縁さえ切れれば、次代の王族と有力貴族達の縁は切れたも同然だ。
だがそこに待ったをかけたのがアナスタシアだ。
アナスタシアは真っ向からアルバートを糾弾し、アルバートが切り捨てたレティシアを自派に取り込んだ。レティシアとアナスタシアの婚姻が無事に成立したということは、バートネット公爵がアナスタシアと同盟を結んだとも解釈できる。
つまり現状、アナスタシアは有力貴族達の味方という立場を表明しているということだ。
王女であり聖女であるアナスタシアの立場は、アレスティア王国で最も強い。
普段は国政に口出しをしないアナスタシアだが、アナスタシアがその気になれば独断でアルバートを廃嫡に追いやることも可能であるはずだ。
そんな最強の切り札が、有力貴族側についた。この状況で黒幕達が黙っていられるはずがない。
そもそもアナスタシアを害することができれば、レンス大河の障壁を無効化して真正面からアレスティアを侵略することもできるのだ。敵対勢力は必ずアナスタシアの身を狙っている。
「少しお遊びに付き合って差し上げてもいいかとは、思っておりますの」
笑みを崩さないまま答えたアナスタシアに、レティシアは真剣な表情のまま頷いた。
──今、こちらがあえて隙を見せれば、向こうは必ず動きを見せる。
先方は確実にこちらの動きを見張っているはずだ。できれば国王が外交から戻ってくるまでの間にアナスタシアをどうこうしたいと思っていることだろう。この硬直状態のまま国王が帰還してしまえば、アルバート側が必ず断罪されてしまうのだから。
恐らく向こうはすでに現状に焦れている。そんな中に隙をさらしたアナスタシアが姿を現せば、必ず動きを見せるはずだ。アナスタシアはそこを返り討ちにし、『現行犯逮捕』という動かぬ証拠を押さえて敵一派を一掃しようと考えているのだろう。
──アンナ様の御身を危険にさらすことには、正直納得はいかないけれども……
レティシアでも餌にはなれるかもしれないが、アナスタシアが直々に出た方が確実ではある。その理屈は、レティシアにもきちんと理解できている。
──でも。
レティシアは思わずキュッと己の指先に力を込めた。椅子に立てかけた愛剣が、急に存在感を増したような気がする。
──わたくしにだって、戦える力があるというのに……
合理性を考えれば、自分はアナスタシアの陰に隠されていた方がいい。アナスタシアが描く作戦の邪魔をしないためにも、レティシアは大人しくしているべきだ。
だがそれで本当にいいのだろうかと、厚かましくも不満を呟く自分がいる。
──わたくしはいつから、こんなに我が儘になったのかしら?
「その上で、ひとつ、レティに贈り物をしておきたいの」
内心だけで思い悩むレティシアに、はたしてアナスタシアは気付いていたのだろうか。
「え?」
レティシアが声をこぼしながら顔を上げた時、ティーテーブルの上には細長い小箱がひとつ増えていた。一体どこから取り出したのだろう、と目を瞬かせながら小箱を見つめていると、アナスタシアの手がスイッと小箱を押し出す。
「開けてみて」
小箱からレティシアへ視線を向けたアナスタシアは、瞳を輝かせながらソワソワと落ち着きのない雰囲気を醸し出していた。この一週間ですっかり見慣れてしまった『落ち着きのないアナスタシア』に、レティシアは思わず目元を和ませながら眉尻を下げる。
「アンナ様。こんなに毎日のように贈り物をいただいてしまっていては、すぐにわたくしの部屋が贈り物で埋まってしまいますわ」
「これは特別です!」
『それに、部屋が埋まってしまったならば、新しく部屋を作れば良いのです!』とアナスタシアは元気に言い切る。そんないつになく子供っぽいアナスタシアの姿にさらに笑みを深めながら、レティシアは差し出された小箱を手に取った。
この一週間、アナスタシアは何かと理由をつけては様々な贈り物をレティシアにしてくれている。
細やかな花束から、美味しいお菓子に、ドレスや宝飾品まで。すぐ入手できる物から『これは一体いつから仕込んでいたのかしら?』と首を傾げたくなる物まで。実に様々なものを、こうしてソワソワしながらレティシアに捧げてくれるのだ。
そうやって贈られた品々は、レティシアの生活を柔らかく彩ってくれている。
だが何よりもレティシアが嬉しいと感じているのは、アナスタシアから漏れ出てくる『喜んでくれるかな?』という期待と不安が入り混じったこの雰囲気だった。
──義務や押し付けからの贈り物では、こんな期待は生まれないもの。
アナスタシアから差し出される品は、どんなものであっても『レティシアに喜んでほしい』というアナスタシアの真心が込められている。
それが分かるからこそ、口ではたしなめるようなことを言いながらも、レティシアはいつもアナスタシアから贈り物を差し出されると嬉しさに顔をほころばせてしまう。
「拝見させていただきますね」
ベルベット張りの小箱は、手にとってもあまり重さを感じなかった。箱の形状からして宝飾品だろうか、と思いながら蓋を開いたレティシアは、中に収められていた品を目にすると驚きに言葉を失う。
「……綺麗」
しばらく置いてポロリとこぼれ落ちたのは、そんなありきたりな言葉だった。
小箱の中に収められていたのは、繊細な銀の鎖の先に一粒の宝石が煌めくネックレスだった。
トップに使われた石は、満月をそのまま閉じ込めたかのように淡い光を放っている。艶の帯び方はムーンストーンのそれだが、宝石が纏っている色は温かみのある淡黄色だ。
その色合いも、柔らかな光も、アナスタシアの瞳によく似ていた。
──まるで、アンナ様がネックレスの姿になったみたい。
銀鎖はアナスタシアの髪のようにしなやかで、ペンダントトップはアナスタシアの瞳そのものだ。そう受け取ってしまうと、箱の内側に貼られたダークブルーのベルベットはアナスタシアが纏う夜空のようなドレスを想起させる。
「そのネックレスには、わたくしの力が込められております」
あまりの美しさにほぅ、と見惚れていると、おずおずとぎこちなくアナスタシアが言葉を紡いだ。
『いつも贈り物をしてくれた時はもっとはしゃいでいるのに、今日はどうしたのだろう?』と、レティシアは小首を傾げながらアナスタシアへ視線を戻す。
「離れていても、わたくしにはレティの居場所が分かるようになっています」
視線を向けた先にいるアナスタシアは、声音以上に落ち着かない様子だった。視線を手元に落としたアナスタシアは、ソワソワと居心地が悪そうに指先を遊ばせている。
「その……我ながら、重たいなとは、思ったのですが」
そんなアナスタシアが、チラリとレティシアを盗み見た。
「レティさえ良ければ、お守りとして、身につけてはいただけないでしょうか?」
いつになく押しが弱いアナスタシアの様子に、レティシアは思わずパチパチと目を瞬かせる。
──重い?
気持ちが、という意味だということは、さすがに分かっている。
アナスタシアはきっと、『身を守るために必要なお守りであり護身具だ』と考えながらも、『常に居場所を把握できるアクセサリーを贈るなんて、束縛するような真似を……』と妙なところでレティシアに遠慮しているのだろう。使われた素材があからさまにアナスタシアを想起させる代物であることも、アナスタシアが言う『重い』に含まれているのかもしれない。
──差し出してきた瞬間は、あんなに自信満々だったのに。
そんなアナスタシアの葛藤や、妙なところで押しが弱いところが『可愛い』と思えてしまうのだから、案外レティシアは意地悪な性格をしていたのかもしれない。
「こういう時に贈るアクセサリーは、指輪が一般的なのでは?」
そんな意地悪な気持ちを隠すことなくレティシアは言葉に出した。その発言にガバッと顔を跳ね上げたアナスタシアは、顔中を真っ赤に茹で上がらせながらワタワタと両手を振り回す。
「そっ! その……っ! レティは剣を握るから、指輪やブレスレットは邪魔になるかと思って……!」
本格的に剣の鍛錬をする時はブーツを履くから、アンクレットもよろしくない。イヤリングや髪飾りでは落としてしまうかもしれない。
そう考えたらネックレスしか選択肢がなかったのだと、アナスタシアはワタワタしたまま説明してくれた。
そんなアナスタシアを、レティシアが目を細めて見つめていることにも気付かないまま。
──本当に、この御方は。
アクセサリーひとつ贈るのでも、どこまでもレティシアを想ってくれている。
そうやって選び抜かれた贈り物に、どうして喜ばずにいられようか。
「そっ、それに! 指輪にはそういう余計な意味は込めたくなくて……!」
レティシアが見つめる先で両手をブンブンと振り回したアナスタシアは、最終的にグッと拳を握りしめると身を乗り出した。羞恥に潤んだ金色の瞳が、今日も真っ直ぐにレティシアだけを見つめる。
「一生を誓う、大切なアクセサリーですもの! 指輪には、その意味だけを込めたいのですっ!!」
アナスタシアの必死の訴えに、レティシアは静かに微笑んだ。アナスタシアの瞳に映り込むレティシアは、とろけ落ちそうなほど甘く笑っている。
そんなレティシアの微笑みに、アナスタシアが息を呑んだまま固まったのが分かった。
「アンナ様」
微笑みを絶やさないまま、レティシアは箱の中からネックレスを取り出した。繊細な鎖を傷めないように丁寧に両手でネックレスを支えたレティシアは、その両手をアナスタシアへ差し出す。
「私の首に、かけていただけませんか?」
レティシアが柔らかく告げると、アナスタシアは固まったままコクリと息を呑んだ。ほぅ、と小さく漏れた息は、アナスタシアがレティシアに見惚れていることを物語っている。
しばらくそのまま待っていると、ハッと我に返ったアナスタシアが慌てて席を立った。
ガタッと音を立てた椅子に構うことなく、アナスタシアはギクシャクとレティシアの傍へ近付いてくる。そんなアナスタシアへ改めて手の中のネックレスを差し出せば、アナスタシアの繊手が震えながらネックレスを取り上げた。
髪は纏めて結い上げてあるから、邪魔になることはない。アナスタシアが着けやすいように姿勢を整えると、留め具を外したネックレスがそっと顔の前を横切っていく。
まるで何か神聖な儀式に挑んでいるかのように、アナスタシアは全身に緊張をみなぎらせていた。もしかしたら神殿で執り行われる祭祀に臨む時よりも緊張しているのかもしれない。
そうでありながら、アナスタシアがそっと腕をどけるまで、レティシアに不要な衝撃が走ることは一切なかった。
繊細な鎖と一粒の宝石で形作られたネックレスは、レティシアの首にかけられてもほとんど重さを感じない。その軽やかさは、アナスタシアからレティシアへ注がれる気遣いに似ているような気がした。
「そのままお待ちになって、アンナ様」
レティシアの首にネックレスをかけ終わったアナスタシアは、そのまま一歩下がってレティシアと距離を取ろうとする。
その足が下がり切るよりも早くアナスタシアを呼び止めたレティシアは、己の右耳に両手を運びながらアナスタシアを振り返った。
「少しだけ、こちらへ」
緊張したままのアナスタシアは、レティシアの言葉の意味を理解するよりも早く、招かれるがまま上体を屈めてレティシアとの距離を詰める。
そんないつになく無防備なアナスタシアに笑みを深めながら、レティシアはアナスタシアの右耳へ左手を差し伸べた。
レティシアの指先がアナスタシアの耳に触れた瞬間、ピクリと微かにアナスタシアの体が震える。
「レティ?」
「わたくしからは、これを」
さらに右手をアナスタシアの左耳へ滑らせ、己の耳から外したイヤリングをアナスタシアの耳に飾る。そっと手を引くと、アナスタシアの白銀の髪に埋もれるように、紅茶色の宝石が輝いていた。
「どうかわたくしの分身だと思って、肌見放さず身につけていてくださいませ」
「れ、レティ!? いけませんっ!!」
レティシアの耳からイヤリングが消えていることに、アナスタシアはようやく気付いたのだろう。バッと体を起こしたアナスタシアは、アワアワと己の右耳に手を伸ばし、結局イヤリングには触れられないまま指を止める。
「このイヤリングは、亡くなったレティのおばあ様が、レティが生まれた時に石から選んで作ってくださった、とても大切なものだって……!」
「そうですね」
アナスタシアの言動にクスリと笑みをこぼしながら、レティシアは己の左耳にも両手を伸ばした。
「だからこそ、アンナ様に贈るのです」
レティシアの言葉に、アナスタシアは今度こそ言葉を失って固まったようだった。
先程アナスタシアはネックレスを選んだ説明の中で『イヤリングや髪飾りでは落としてしまうかもしれない』と口にした。
もちろん、それも本心なのだろう。だがイヤリングが候補から外されたのには、もうひとつ重大な理由があったはずだ。
レティシアの両耳には、赤みを帯びた金の台座に紅茶色の石があしらわれたイヤリングがいつも飾られている。
高価な物でもなければ、華美な物でもない。色味を優先して選ばれた材だから、石の名前も分からない。レティシアが身につけると髪の色に紛れてしまうから、身を飾り立てるのにも向いていない。
だがレティシアにとっては、この世にふたとない宝物だった。
このイヤリングは、レティシアが生まれた時に、誕生を祝して作製された物だ。今は亡きレティシアの祖母が自ら石を選び、台座を選び、デザインを起こしたと聞いている。
石はレティシアの瞳の色。台座はレティシアの髪の色。
はからずもアナスタシアが贈ってくれたネックレスと同じ意味合いの取り合わせがされている。
「わたくしの大切なものを、アンナ様は決してないがしろにされませんでしょう?」
「当たり前です!」
「ですから、わたくしの大切な物を身に着けたアンナ様は、アンナ様御自身も大切にしてくださるはずです」
柔らかな口調のまま続けると、アナスタシアは不意を衝かれたかのように口をつぐんだ。レティシアを見つめた満月の瞳は、これ以上ないほど丸く見開かれている。
そんなアナスタシアの姿を見つめたまま左耳のイヤリングも外したレティシアは、イヤリングを包み込むように両手を握り合わせた。
その様は、祈りを捧げる仕草に似ている。
「わたくしは、アンナ様のように、このイヤリングに加護を込めることはできません」
レティシアはただの人間だ。アナスタシアのように特別な力は持ち合わせていない。
だけど祈ることは、アナスタシアと同じようにできる。アナスタシアを案じ、行動することは、レティシアにだってできる。
「だけどこのイヤリングは、今までわたくしを守ってきてくれたように、アンナ様も守ってくれる。その祈りは、込めたつもりです」
そしてアナスタシアが特別な力を持っていても、同じ人間であることを知っている。自分を一心に慕ってくれている、自分よりも五歳も幼い少女であることを、知っている。
「アンナ様。受け取っていただけますか?」
ずるい言い方をしているな、と自覚しながら、レティシアは両手を開いて左耳につけていたイヤリングをアナスタシアに差し出した。
そんなレティシアを呆然と見つめているアナスタシアは、小さく唇を震わせていた。だがしばらくすると、花弁のような唇はキュッと引き絞られる。
答えは、言葉では示されなかった。代わりにアナスタシアの上半身がそっとレティシアへ寄せられ、形のいい左耳がレティシアの目の前にさらされる。
その耳に、レティシアは手に残っていたイヤリングを贈った。月光の中に灯された紅茶色の宝石は、午後の麗らかな光の中に誇らしげに輝いている。
「一生を誓う指輪は、一緒に作りに行きましょうね」
指を引きながらその耳元にそっと囁くと、アナスタシアの腕がサッと動いた。完全に引き戻されるよりも早くレティシアの指先を捕まえたアナスタシアは、さらに上半身を屈めるとレティシアの指先を口元へ運ぶ。
左の薬指に柔らかな熱が触れた瞬間、満月の瞳が射抜くようにレティシアを見つめたのが分かったような気がした。
「俄然、やる気が出ました」
月夜の色彩の中にレティシアの色を落とし込んだアナスタシアは、レティシアの指を捕まえたまま麗艶に微笑む。
「邪魔な羽虫などさっさと叩き落として、甘い甘い蜜月を過ごしましょうね」
──こ、これはやる気にさせすぎたかもしれない……!
ギュンッ! という今まで感じたことがない心臓の動きに、レティシアは思わず固まってしまった。
そんなレティシアを前に上機嫌で微笑むアナスタシアを見たレティシアは、自分が何にモヤモヤしていたのかをすっかり忘れてしまったのだった。




