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第3章 満ちゆく器、欠けゆく自分  作者: 都桜ゆう


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2. 抜け落ちる夜

 詩織はもう、隠し通すことはできないと悟った。

 肩のキャンバスバッグを下ろし、チャックを開けて、中からあの濃紺の布張りノートを取り出す。


 表紙に書かれた『月の記憶』という文字は、やはり店内のランプの光の下でも、どこか独自の鈍い光を放っているように見える。


「これを……一昨日、倉庫の木箱の底で見つけたんです」


 詩織がノートをカウンターに置くと、老人はまるで猛毒の蛇でも目の前に突きつけられたかのように、大きく身を引いた。その顔から血の気が急激に引いていく。


「それは遥の……。まだ、残っていたのか。

 父親が言っていた、あの忌まわしい記録が……」


「店長、遥って人は、誰なんですか? 大正時代にこれを書いた人は、どうなったんですか?」


 詩織の悲痛な問いかけに、老人は頭を抱え、絞り出すような声で語り始めた。


「遥というのは、その洋館に住んでいた男の名前だ。

 父親の話では、苗字を名乗ることもなく、街の人間からはただ遥さんと影で呼ばれていたらしい。

 100年前の大正末期、彼は確かにあの丘の上で、月の光を集めていた……。


 そのノートに書かれていることは、きっと父親が恐れていた通りの、本物の狂気なんだろう」


 老人の声は、自身の幼い頃の記憶を無理やり抉り出すかのように、苦渋に満ちていた。


「当時、この街では奇妙な噂が絶えなかったんだ。

 満月の夜になると、決まって街の誰かの記憶が抜け落ちる。


 ある者は、昨日まで愛していた妻の顔を完全に忘れ、またある者は、自分が生まれ育った実家の場所がわからなくなり、街を彷徨った。

 警察は集団性の精神疾患か、あるいはたちの悪い流行病だと片付けようとしたが、古い人間たちは、あれは月隠し(つきかくし)の仕業だと怯えていたらしい。

 満月の光を浴びすぎた者は、月に心を引っ張られて影だけになってしまうのだ。という、根も葉もない迷信さ。だが、今にして思えば……。

 あの月隠しは迷信なんかじゃなく、本当にあの巨大な満月が、街の人間の記憶を少しずつ引き上げていた。――あるいは変質させていたのかもしれない」


 老人は震える手で、もう一度煙草を口にくわえたが、火はすでに消えていた。それに気づかないほど、彼の精神は父親から聞いた過去の恐怖に囚われていた。


「その洋館の主だった遥という男はね、最初は街を襲うその奇妙な現象を防ぐ方法を、星空の中に探していたらしいんだ。


 だが、いつしか彼は、天体望遠鏡のレンズ越しに見つめ続けた、月の持つ膨大な記憶の魅力に自ら取り憑かれてしまった。

 人間の短い一生では到底得られない、世界のあらゆる真理や、過去の美しい記憶。それらを、月光を通じて自分の脳に引き込もうとしたんだ。

 だが、人間の脳は、月が蓄えた数千、数万年分の記憶の圧力に耐えられるほど頑丈にはできていない」


「耐えられないと……どうなるんですか?」


 詩織が尋ねると、老人はゆっくりと彼女の目を見た。その瞳の奥には、憐れみと、そして明確な警告の光があった。


「崩壊するのさ。

 元々あったその人自身の記憶――子供の頃の思い出、親の顔、自分の名前、今日食べたものの味、そういった自己の土台が、新しく流れ込んでくる強烈な記憶の濁流によって押し流され、削り取られていく。

 そして最後には、抜け殻のようになるか……あるいは、全く別の何かに生まれ変わってしまう。


 遥は、自分の意識が消えかける直前、ある計画を思いついた」


「計画……?」


「記憶を完全に保存するための器を作ることだ。

 自分の脳ではなく、月光のエネルギーを完全に受け止め、その記憶を永久に定着させることができる特別な依代――。彼はそれを、狂気の中で探し求めていた」


 老人の言葉は、日記に書かれていた、器はまだ見つからないという走り書きと完全に一致していた。

 詩織は、自分の足元が音を立てて崩れていくような感覚を覚えた。


「夜はあまり月を見すぎるな、と私が言ったのはそのためだ、詩織ちゃん」


 老人の声は、今や完全に震えていた。


「月はね、ただ光を浴びせるだけじゃない。相応しい器を見つけると、その人間をじっと見つめ返し、手招きをするんだ。

 君が最近、物忘れが激しくなったり、知らないことを思い出したりしているなら……それは、君が……」


 老人はそれ以上、言葉を続けることができなかった。だが、彼が何を言おうとしたのかは、詩織には痛いほど伝わっていた。


『君が、次の器に選ばれているのではないか』


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