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第3章 満ちゆく器、欠けゆく自分  作者: 都桜ゆう


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1. 琥珀色に溶ける煙

 店内の空気は、まるで冷たい硝子で満たされたかのように張り詰めていた。


 古いラジオから流れていたノイズ混じりの音楽が途絶え、ただ真鍮製ランプの芯がチチ、チチと微かに爆ぜる音だけが響いている。


 カウンターの奥に佇む店主の老人は、いつもの穏やかな好々爺の表情を完全に消し去っていた。

 深く刻まれた目尻の皺はこわばり、東の窓から昇り始めた巨大な月を見つめる瞳は、まるで冷たい水底を覗き込んでいるかのように昏い。


「店長……どうして、月を、見すぎるななんて言うんですか」


 詩織は自分の声が小刻みに震えているのを自覚していた。

 カウンターの木肌に押し当てた両手のひらは、じっとりと冷たい汗ばみを見せている。


 バッグの中に隠してあるあの紺色のノート――『月の記憶』の重量が、まるで実体を持った鉄の塊のように、肩を通じて彼女の全身へと重圧をかけていた。


 老人はゆっくりと視線を月空から外し、詩織へと向けた。その目は、彼女の怯えをすべて見透かしているかのようだった。


「詩織ちゃん。君は忘却というものを、ただの脳の老化や、不注意によるものだと思っているかい?」


 老人の声は低く、かすれていた。


「え……? あ、あの、私は……そんな、難しいことは……」


「人間はね、忘れる生き物だ。それは、生きていくために必要な防衛本能でもある。

 辛いこと、悲しいこと、あるいは日々のどうでもいい雑事。それらを綺麗に洗い流すからこそ、心は壊れずに済む。だがね……」


 老人はそこで言葉を切り、カウンターの下から古びた灰皿を取り出すと、もう何年も吸っていなかったはずの煙草に火をつけた。

 紫煙がランプの琥珀色の光に溶けていく。


「世の中には、人間の都合とは無関係に、記憶を強引に奪い去っていく力があるんだ。それも、ただ消し去るんじゃない。持ち主の許可なく中身を入れ替え、別の何かを詰め込んでいく。

 ……この町にはね、昔、その力に魅入られてしまった変わり者がいたんだよ」


 詩織の心臓が、どくんと大きく跳ね上がった。


「変わり者、ですか……?」


「あぁ。私の父親が、まだほんの10歳にも満たない子供だった頃の体験談でね。大人になった父親から、よく聞かされて育った古い話だ。

 

 今から100年も前のことだがね、この店の裏手をさらに進んだ丘の上に、奇妙な形をした洋館が建っていた。

 そこには、街の人間とは一切交わらず、夜な夜な巨大な天体望遠鏡を夜空に向けている風変わりな男が住んでいたんだ」


 老人の言葉が、詩織の脳内で1つの像を結んでいく。


 今日の昼間、駅の改札前でポケットに見つけた、あの古い真鍮製の鍵。そして頭に浮かんだ天体望遠鏡のある部屋の扉という見知らぬイメージ。

 それらが、老人の昔話と恐ろしいほどの精度で、カチリと噛み合っていく。


「その人は……夜空を見上げて、何をしていたんですか」


 詩織は、すでに心の中で答えを知っていながらも、問いかけずにはいられなかった。


 老人は煙草を深く吸い込み、白く燻る煙の向こうから、詩織をじっと見つめた。


「月さ。父親の話ではね、その男はただじっと夜空を見上げているだけではなかったらしい。


 月はただの岩石の塊ではない。宇宙の始まりから現在に至るまで、地上で死んでいったあらゆる生命や、失われた文明の記憶が、あの青白い光に溶けて蓄積されているのだ……と。

 そして、条件が揃った夜、満ちた月はその膨大な記憶を地上へと送り返してくる。


 実はね、当時まだ子供だった私の父親が、好奇心からその洋館の庭へこっそり忍び込んだことがあってね。

 そのとき、開いた窓の奥から、男がとり憑かれたようにそう呟いているのを、すぐ近くで盗み聞きしてしまったそうなんだ。

 父親は恐ろしくなってすぐに逃げ出したらしいが、そのとき男が口にしていた風変わりな言葉が、どうしても耳から離れなかったと言っていたよ。

 ……何といったか……」


「……月光変質」


 詩織の唇が、無意識にその言葉を紡いでいた。


 老人は目を見開き、持っていた煙草の手をピタリと止めた。その指先が、明らかに恐怖で震えているのを詩織は見逃さなかった。


「君……なぜ、その言葉を……」


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