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第3章 満ちゆく器、欠けゆく自分  作者: 都桜ゆう


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3. 記憶の糸が爆(は)ぜる音

 店主の老人の忠告を胸に、詩織はその夜、深い失意に足取りを重くしながらアパートへと帰り着いた


「月を見てはいけない。日記を開いてもいけない」


 頭の中でその言葉を何百回も反芻しながら、彼女はカーテンを隙間なく閉め、部屋の明かりをすべて点灯させた。


 蛍光灯の白い光が、ワンルームの部屋を無機質に照らし出す。

 これで少しは安心できるはずだった。


 しかし、本当の恐怖はここからだった。それはアパートの暗闇に潜む何かではなく、彼女の内側――まさに自分の記憶そのものから湧き上がってきたのだ。


 静まり返った部屋の中で、詩織はベッドに腰掛け、何気なく周囲を見回した。

 いつも見慣れているはずの、お気に入りのインテリア。大学の教科書が並ぶ本棚。


 ――私は本当に、これらを自分で選んで買ったのだろうか?


 そう思った瞬間、彼女の脳は強烈な拒絶反応を示した。

 昨日まで愛着を持っていたはずの景色が、まるで全く見知らぬ他人の部屋に閉じ込められてしまったかのように、おぞましい異物として目に飛び込んできたのだ。


(おかしい。私の部屋は、こんなに狭くないはずだ。もっと天井が高くて、壁には大きな古時計が掛かっていて、窓からは……海が見えるはずなのに)


 自分の部屋を見ているはずなのに、頭の奥底からは、行ったこともないはずのもう1つの部屋の記憶が、濁流のように溢れ出して目の前の景色を塗り替えていく。


「違う、ここは私の部屋。私は詩織。普通の大学生……」


 詩織は自分の両腕をきつく抱きしめ、自分自身に言い聞かせるように、必死にその名前を声に出した。


 だが、自分の口からこぼれ落ちた詩織という響きすら、まるで一度も使ったことのない外国の単語を無理に発音しているかのように、ひどく白々しく、他人のもののように響くだけだった。


 脳の奥底で、何かがパチパチと音を立てて弾ける感覚がする。

 それは、彼女の19年間の記憶の糸が、1本ずつハサミで切られていく音のようだった。


 幼稚園のとき、泥団子を作って褒められた記憶。

中学校の卒業式で、友達と泣きながら写真を撮った記憶。


 それらの光景が、まるで古い写真が日光に晒されて色褪せていくように、急速に白く、不鮮明になっていく。ディテールが思い出せない。友達の顔にモザイクがかかり、自分が何を話していたのかが霧の彼方へ消えていく。


 代わりに、驚くほどの解像度を持って脳内に溢れ出してきたのは、見たこともない過去の情景だった。


 大正時代の、外套を着た自分の姿。

 白熱電球の下、ガラスのフラスコに怪しげな液体を満たし、月の光をレンズで集める実験をしている手元。


 そして、その傍らでいつも優しく微笑んでいた、1人の美しい女性の横顔。


(あぁ、彼女の名前は……小夜(さよ)だ)


 詩織は、その名前を思い出した瞬間、胸が押し潰されるような深い哀愁と愛おしさに満たされるのを感じた。

 だが同時に、恐るべき現実に気がつき、凍りついた。


 小夜なんて人間は、詩織のこれまでの人生に1人も存在しない。

 これは、詩織の記憶ではない。100年前の男――遥の記憶だ。


「やめて……入ってこないで……!」


 詩織は耳を塞ぎ、床にうずくまった。

 だが、耳を塞いでも無駄だった。音は外からではなく、彼女の思考そのものをハイジャックして響いているのだから。


 脳内で、遥の最後の言葉が、まるで呪詛のように、あるいは聖歌のように厳かに響き渡る。


『記憶は月へ還る。だが、器があれば――。

 記憶は永遠となり、私は再び、あの白い砂浜で小夜に会うことができる』


 遥は、自分の最愛の記憶を、そして自分という存在そのものをこの世に繋ぎ止めるために、器を必要としていた。


 あのノートは、100年という長い時間を経て、古書店の倉庫という闇の中でじっと息を潜め、条件に合致する魂がやってくるのを待っていたのだ。


 皮肉にも今、詩織はその罠に、完全に囚われてしまっていた。


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