第四五話 吉原を諦めない男
ここからは伝蔵の婚礼から半年前にさかのぼる、七月のとある午後。
「吉原にくる客の数が減ってきてるらしい」
日本橋通油町・耕書堂蔦屋重三郎。
水菓子の西瓜を中庭の縁廊に腰かけて二人並んでかじり、種を飛ばす。
「原因は? 重三のことだから読めてるんだろう」
「お前、学問吟味って知ってるか?」
「学問吟味。いや」
「今年の正月にお触書がでたらしい。湯島の昌平坂学問所で行われる、旗本・御家人だけを相手にした試験なんだとよ」
「へえ、試験ねえ。旗本・御家人なら私たちには関係ないね」
伝蔵は気のない返事で、西瓜の種をプッと庭先に飛ばす。
「そうか、それでみんな〝その気〟になったのか。その話、誰から聞いた?」
「井上直次郎」四方赤良だ。
「なんでまた。先生は〝世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶというふて夜も寝られず〟じゃなかったっけ?」
「ところがな、この学問吟味ってのに合格すると褒美が出るらしい」
「へえ。褒美か。奢侈倹約を謳ってるにしては豪気だね。……もしかして四方先生?」
「公儀に学問の素養を認められたら、幕閣とまではいかねえまでも、ある程度の出世が見込めるんじゃないか、触書の内容でそう直感したんだとよ」
「その吟味って、いつあるわけ?」
「三年後。寛政四年らしい」
伝蔵は眉をひそめた。
「だいぶ先じゃないか。ははぁん、それだけ勉強してこいって言うからには、本当に公儀が立身出世の夢を叶えてくれるのなら、吉原に通ってる暇はないわけか」
「そういうこった。で、その証拠ってわけでもねえが、うちの見世棚でも洒落本や美人画は見向きもされなくなってて、経書や漢詩書が徐々に売れ上げを伸ばしてる」
「鶴屋喜右衛門のところも?」
「そうらしいぜ」
「文武奨励に餌をくくりつけたわけか。それで褒美が金十両だったら」
「御家人を中心に、江戸城に向けて打ちこわしが起きるかもな」
文武ぶんぶの蚊帳の外にいる町人二人は西瓜を手に、くくっと声を洩らした。その笑みが消えると、重三郎は危機感を伴った真摯な表情を相棒に向けた。
「おれは吉原で育って、吉原で商売を学んで儲けさせてもらった。侍どもが急に真っ当になるにしても、それが三年先まで続いてみろ、吉原が干上がっちまうぜ」
「そのご高説の流れからして、また洒落本?」
「そうだ。来年の正月は、蔦屋で三部を刊行する」
伝蔵はかじった西瓜の種を喉に引っかけて、むせ返った。
「無茶が過ぎるよ、重三。私は今年だって洒落本を三部出したんだよ?」
『〈洞房妓談〉繁千詣』(多田屋利兵衛)、『傾城買四十八手』(蔦屋重三郎)、『〈戯作四書〉京伝予誌』(伏見屋善六)である。
「おれン店じゃあ一部だった、だから三部同時に出す」
「春に『小紋雅話』、『〈太平記吾妻鑑〉玉磨青砥銭 全三巻』、『照子浄頗梨《(かがみのじょうはり》』を書かせていただきましたよ。お忘れですか」
「来年は、京伝洒落本三部同時刊行。これで行こう、よしっ」
伝蔵は西瓜の種を足下に飛ばして、溜息を長くついた。
「なんだその溜息は。種探し代(取材費)を弾んで欲しいのか、ふふ、この欲しがりめ」
「前から言おうと思ってたんだけどさ、こういうの、もうやめないか?」
「こういうのってなんだよ」
「今回ばかりは洒落本を三つ同時に出したところで売れない気がする」
「おい、大戯作者山東京伝。書く前から弱気になってどうする」
「さっきの学問吟味が三年先にあるんだろ。だったら遊女との恋だ愛だ、濡れ場だと売り出したところで、立身出世に目覚めて吉原に通わなくなった連中が買っていくとは思えない。舵を、読本や──」
「いくらだ。いくらほしいっ」
だめだ。聞く耳を持ってくれない。あるいはもっと直截に意見するか。
「重三、洒落本はもう、通じなくなってきてるんじゃないのか?」
「いーや、まだだ。まだ終わらんっ」
重三郎は語調を強めて言い張った。まるで駄々っ子のようだ。
「吉原の客が減ったといっても地方からきた田舎武士はいるし、町人まで足を向けなくなってるわけじゃねえ。そうだ。吉原は今、いろんな戯作者の手垢がつきすぎて曇ってるだけだ。な? そうとも伝蔵、こいつは磨き直し、再発見、テコ入れだよ。吉原の良さをもう一度江戸の連中に分からせてやるんだ。そのための三部同時刊行だっ」
伸ばしすぎた天狗鼻に振り回されて、重三郎の首が周囲にまで回らなくなってきている。そんな画が浮かんだ。
「わかった。なら、これは貸しにしとくよ」
「貸し? なんだそりゃあ、どういう意味だ」
「書画あわせて大判一枚につき、銀一匁。三部全部で、一五〇匁くらいか。金に直せば、二両三分くらい? 前金として一両五匁を今、払ってくれ」
「お前に、それっぽっちを今払ったところで、どういう意味がある?」
重三郎が怪訝そうに見返してくる。
伝蔵は庭先に飛ばした種をあごで指し、憮然と言った。
「私はもう、実のつかない種まきはしない。絶版処分になって版木ごと一年の苦労が灰に消えることを思えば、これくらいの手間賃は先にもらっても罰は当たらないだろ?」
重三郎は自尊心を甚く傷つけられたか顔が紅潮した。怒鳴り出す寸前だが、前回の『〈飛脚屋忠兵衛仮住居梅川〉奇事中洲話』が絶版処分で伝蔵をタダ働きさせたのを思いだしたらしい。紅潮させた顔のままで言葉を呑みこんだ。
「もし、お前の洒落本が三部とも、町奉行の検閲を通ったら?」
本気か。今や蔦屋重三郎は書物問屋株仲間の大立役だ。それでも無理を通そうと町奉行を相手に黒を白にできるとは思えない。伝蔵もムキになった。
「いいよ。もし通ったら、重三の言うこと、なんでも聞いてやるよ」
重三郎は戯作者から悪党と呼ばれるに相応しい、悪どい商人の笑みを浮かべた。
「言ったな、山東京伝。なんでもだな。戯作者に二言はないな、嘘ついたら針千本飲ませるからなっ」
遊女の約束いや、もはや子供の捨て台詞だ。大人気ないこと夥しい。
この時はまだ、二人とも頭の隅では下らない男の勝負の結末を予想できていたのである。




