第四六話 伝蔵、転職を考える
寛政二年七月。
洒落本『〈手段詰物〉娼妓|絹籭』《きぬぶるい』、『〈青櫻昼の世界〉錦の裏』『〈大磯風俗〉仕懸文庫』を耕書堂蔦屋重三郎に納品した。刊行は寛政三年正月となるが、それに先立って三部作の潤筆料一四六匁(金換算で二両三部と銀十一匁)のうち、前金として一両五匁(約十五万円)を受け取った。
盂蘭盆会。
家族で両国回向院境内の墓地に建てた岩瀬家の墓へ、妹よねの納骨法要を行った。
[岩瀬家之墓 岩瀬伝左衛門信明 男伝蔵有済 建 ]
一両五匁は、この墓代に費えた。
「伝蔵、助かったよ。あと少しが積み立てられなくてなあ」
「いいんですよ、親父殿。家族みんなで建てた墓です。よねも喜んでるはずですから」
伝左衛門の不甲斐なさげな苦笑に、伝蔵は慌ててとり繕った。
父の安堵と申し訳なさが混在する笑顔に、親の老いを見た気がして少し怖かった。
一両という額は、一般庶民でもなかなかお目にかかれる金子ではない。
江戸町人で屈指の高給取りの大工で日当銀五匁、月給で二両弱もらっていたといわれる。それでも妻と子供二人いれば貯蓄に回せる額は微々たるもの。
また町屋敷の管理人である家主の年収は、二百両から二四〇両といわれている。職人街の新両替町ならいざ知らず、どの町の長屋でも洪水や火事で家屋に恒久的な損害が蓄積している。その修繕を長屋の店子ができるはずもなく、家主が名主に立替えという形で自腹をきるほかなかった。
岩瀬家に入るはずの実質収入もあまり多くなかった。そこにきて今年はのうらく息子が、お武家にあわせた豪勢な婚礼もあった。
また年季明け直後の元遊女に高価な白無垢の小紋を支度する金があるはずもなく、きぬ(長女)が差し入れてくれた花嫁衣装を見て、母大森が心底からの「助かった」と安堵を口にしたくらいだ。
伝蔵は長男として家計の内実に打ちのめされていたのだ。
「親父殿。私に、私たちに商売を教えてくれませんか」
「うん。まず、店舗を買うだけで二百両はかかるぞ」
「ええぇっ!?」
伝蔵が戦慄する顔を愉しんでから、伝左衛門は母と顔を見合わせて微笑を浮かべた。
「身を固めて地道に働く気になったのは、よねを供養した御利益なのかもな。そう慌てるな。まずは算盤と記帳から教えてやるから」
「それならいっそ、父上に帳場へ座ってもらえば早いのでは?」
百樹が妙案を口にすると、お菊が小首を傾げて、
「でもそれだと、伝蔵さんのお店、初日からお父様に乗っ取られてませんか?」
と言い得て妙を突いたので、家族みんなで笑った。
それから江戸の空が秋めいてきた頃、自宅へ久しぶりに滝澤左七郎が現れた。
「ごめんください」
「はーい」
玄関に出たお菊に、滝澤左七郎は泡食った様子で声を上擦らせていた。
「あの、ここは山東京伝先生の?」
「ええ。間違いございませんよ。あ、わたし、伝蔵の家内のお菊と申します」
「家内。あー、あの白無垢の。滝澤左七郎と申す。それで先生はご在宅で?」
「はいはい、ちょっと待ってくださいね」
お菊が家の奥に戻ってくると、伝蔵は自室を出ていた。
「伝蔵さん、お客さんです。滝澤さんという方が。たぶん、お弟子さん志望?」
「いや、彼は友人だよ」
最近、弟子入り志願者が多い。とくに絵の方ではなく、戯作志望が。絵は無理でも文なら容易いと思って門を叩くから、伝蔵には腹立たしい。
伝蔵は左七郎を家に上げて、自室へ通す。
「先生。遅ればせながら、ご成婚おめでとうございます」
「宴席の膳は用意してたのに、すぐ帰ったのを見てたよ」
「不作法をしました。お許しください。これを書いておりましたので」
そういって、風呂敷包みから黄表紙の冊子を二冊取り出した。
『廿日余四十両尽用而二分狂言』
暗黙の呼吸だった。伝蔵はそれを黙って受け取って、中を検めた。
内容は題名の通り、二十日で四十両を使い果たした俳諧師・馬琴の空騒ぎストーリーだ。
この年の春に、大栄山金剛神院永代寺で京都大仏内の弁財天の開帳があり、境内で催された壬生狂言(無声劇)に材を取ったもので、題名の二分狂言は壬生狂言のもじりだ。
伝蔵は何も言わなかったが、これを滝澤左七郎のデビュー作とするなら、山東鶏告(百樹)のデビュー作『両国信田染』と同じ趣向から材を取っている。弟は回向院の釈迦如来像のご開帳だった。結局、犬猿の仲でも根っこは似たもの同士なのが伝蔵には可笑しい。
「左七郎は、芝居が好きかい」
「はい。木戸銭を払う金もありませんので、もっぱら耳乞食ですが」
中の演目を耳で聞いて、想像で芝居を見物している。町人でも割と多いキセル行為だ。
「滝澤家は御家人だろう。学問吟味は受けないの?」
「儒学はひと通り学びましたが、武士で身を立てるにはいささか」
頼りないか。まあ、そうだろうな。伝蔵は二冊目の黄表紙を閉じる。
「あの、先生。もうお読みに?」
「うん。初作にしてはよくできていると思う、これ預かっていいかい。どこかの板元に頼んでみてあげるよ」
「ありがとうございますっ」滝澤左七郎は平伏低頭した。
「でもね、この手の語りは、もう世間には受けないと思う」
伝蔵は真摯な思いを載せて、滝澤左七郎に予言する。
「戯作は今、ちょうど潮目にきていると、私は思ってるんだ」




