第四四話 山東京伝、嫁を娶(めと)らば 後
「ダメに決まってんだろう!」
そうは問屋が卸さなかった。地本問屋だけに。
「人気ってのは一度途絶えたら、それっきり糸が切れちまうんだ。黄表紙でも洒落本でもなんでもいい、書け。春になったら出すからな」
「重三、今年は洒落本を三つも抱えていたんだ。私だって人並みに新しい家庭の幸せを満喫したいんだよっ」
「だぁから書きながらでも、書いた後でもしっぽりやりゃあいいじゃねえか。山東京伝が所帯もって最初の一発目だ、〝菊亭主人〟とか自惚れた名前で売り出してみっか? なんでもいいから春に一本仕上げてもってこい」
「この悪党っ、人でなし。人の心ないんか!」
「がははっ。読者が百人単位で待ってるぞ。人気戯作者の業だ。諦めろ。あ、それとな」
「なにっ?」
「正月に吉原でお披露目道中があると思うが、扇屋の三代瀧川が〝呼び出し〟に昇格するらしい」
伝蔵は目をしばたたいた。三代瀧川は菊園の実妹だ。
「早くないか?」
「うん、今年で十八の花魁誕生だ。丸二年、必死になって気張ったらしい。その意味でも扇屋は実質二人の花魁に挟まれながら間を取り持った、数奇な番新(番頭新造)の年季明けを粗略に送り出したくなかったわけだ。大事にしてやんな」
振り返りざま、袖から切餅(二十五両)を一つ、ご祝儀とばかりに差し出された。
伝蔵が不承不承ながら受け取ると、話は終わりだと手を振って追い払われた。
重三郎のずるい言祝ぎに、伝蔵は仏頂面のまま耕書堂を出るしかなかった。
「あーもうっ、ばーか、かばやき重箱っ! 人でなしの、人たらし!」
鶴仙堂鶴屋喜右衛門にも挨拶に行くと、二代目三代目親子がわが事のように喜んでくれて、ご祝儀に十両包みを二つくれた。
「香蝶様(笹場鈴成の号)と杜陵様(酒井抱一の号)をお招きできる茶屋ってある?」
「そりゃあ、いくらでもあるよ。金さえ積めばね」
「だよね」
すると白髪の二代目喜右衛門があごを撫でながら、
「そうだなあ。山東京伝の婚礼となりれば二、三百人はくるだろう。茶屋の人気と広間の大きな場所がいいだろうね」
「おとっつぁん、両国柳橋の万八楼とかどうかな?」三代鶴喜が提案する。
「うん、そうだな、あそこなら」
「五年前の洪水で河内屋が流された後の?」伝蔵も知っている。
「そう、万屋八郎兵衛。二月なら使ってくれたほうが、あっちも喜ぶんじゃないかね」
「わかった。ちなみに、来年の戯作は休みたいんだけど……」
鶴屋親子はよく似た笑顔を左右に振った。
「兄さん、やっと身を固める気になったわけぇ!? おっそ!」
深川木場の質屋・伊勢屋忠助。年の瀬で店も忙しい中、妹きぬにも報告を入れた。
「そんで、日取りと場所は」
「二月十四日、涅槃会(十五日はお釈迦様の命日)だけ避けたよ。場所はまだなんだけど。お武家も招待することになるから家格にあった茶屋がなくてさ」
長女様は呆れた様子で、盛大に鼻息して、
「両国柳橋の万八楼、あそこにしておきなさい。こっからも近いし」本日二票目。
「なんか、人気店だとは聞いたけど」
「八百膳から引っぱってきた板前が二人、夏に辞めてから人気が出だしたんだってよ」
「なんだいそれ、普通、逆じゃない?」
「んなことよりさ、兄さん。茶屋よりも、招待客の席順の方が重要じゃないの」
「あっ。うん。まあ」曖昧にしか返事ができなかった。
「うちの亭主もいってたけど、お武家は石高で決めるのが無難らしいわよ」
「へえ、でもなあ。三千石の大身旗本はともかく、藩主の弟の石高なんて知らないよ」
のうらく兄の婚礼に、お武家がそんな上の方からやってくると聞いて、きぬも虚を突かれた顔で二の句が継げなかった。
「と、とにかくさ。誰でもいいから聞いて序列を決めな。あ、そうだ。吉原の揚屋で聞いてきたら? そうしなさいよ。あっちもそれ管理するのが仕事の半分みたいなとこあるしさ。あと普段からご愛顧、親しくさせてもらってたり、商売上の利があるなら席順は馬鹿にできないわよ」
「一方を立てれば他方は立たず、とかにならない?」
「当然なるわよ。客だって序列は相手の家格を値踏みできる機会だもの。その辺は兄さんが調整するしかないわよ。案外、父さんがやっちゃうかもね。コツは隣席を友人同士で固めるのがいいみたいよ」
複雑な判じ物を読み解くみたいに伝蔵が閉口していると、きぬは身を乗り出してくる。
「そんで、相手の女、どんな感じ?」
「え。うん、吉原上がり、番頭どまりだけど」
「いいじゃない。振袖なんか家に上げたら、あたしが母さんの代わりに兄さんはっ倒してたわ」
「ええぇ、意味がわからねえよ」伝蔵も眉をハの字にした。
「のうらく息子に箱入り娘をあてがわれちゃ、家が傾くって言ってんの。男なんて好いた惚れたって言っても、稼げなきゃ女房を売り飛ばすロクデナシなんだから」
「身も蓋もねえこと言うなよ。きぬの私に対する沽券、どんだけ安いんだよ」
「だまらっしゃい、のうらく息子。番新なら男に尽くしも操るも自由自在だろうから、家のことはある程度任せられる。んで、器量好しなの?」
「まあ、いいよ。年は四つ下。背は向こうが一寸五分(五センチ)上……少しだけ、よねに似てる」
「ふぅん、がきっぽいのね」
きぬ姉は、がはははと笑って別室に移った。すると伝蔵の背後でぞわりと冷風が吹き抜けた。よねが聞いていたのかも知れない、笑うに笑えない。
やがてきぬは別室から着物を腕に抱えて戻ってきた。
「きぬ。それ、もしかして」
「質流れ品かって訊いたら、顔面蹴り殺すわよ」
渡されたのは、白無垢の花嫁衣装だった。
「父さんが仕立ててくれたやつ。身丈は四尺七寸(一七五センチ)までならなんとか直せるはずだから。葬式や婚礼なんて物入りでしかなんだから、これくらいは節約しなよ」
軽口を叩きながらも、なんだかんだ兄の婚礼を祝ってくれるきぬの気持ちが嬉しかった。
年改まって、寛政二年(一七九一年)二月。
「たーかーさーごや~ この浦船に、帆をあげて~」
三味線にあわせて、松永和風による婚礼歌の定番『高砂』が唱歌される。
新郎 伝蔵、三十一歳。
新婦 菊、二七歳。
祝宴場所は、両国柳橋万八楼である。
菊園ことお菊には江戸に親族がいないので、親族席に扇屋主人墨河こと鈴木宇右衛門・稲城夫妻を無理やり座らせた。その横には香蝶公(笹葉鈴成)と愛人の元七代瀬川・常葉ご両人。墨河とも顔なじみのはずなのに、緊張しきりの鬼瓦は見る者に笑いを誘った。
媒酌人席には町年寄の十二代樽屋与左衛門に定まった。
山東京伝の媒酌役をめぐり二つの町の名主同士で喧嘩を始めた末の和平決着だった。
大広間は参列者が四列が左右に向かい合い、二百人の大宴会である。
上席には北尾重政、四方赤良、朱楽菅江、唐衣橘洲、杉田玄白、加藤千蔭、森島万蔵、そして長谷川平蔵(父の招待)、蔦屋と鶴屋親子が業者筋として連なった。
また下席は勝川春章と春朗の師弟、喜多川歌麿、宿屋飯盛、花道つらね(五代市川団十郎)、北尾政美や恋川好町あらため北川真顔など、江戸中の文人有識者が集った。
「よねにも見せたかったなあ、兄上の婚礼」
「いいえ。しっかり見ていますよ。こんないい景色を見逃すあの子ではないわ」
二男の独白を、母大森が微笑んで確信する。
「でも、あなたが鵜飼家に入ったらできるだけ早く、ささやかにお願いね」
「えっ、はい。精励いたします」
百樹は来年、鵜飼助之丞と名を変え、青山家の前藩主・忠高の近習として十三人扶持を賜ることが決まった。
岩瀬兄弟の門出は定まり、前途は洋々、のはずだった。




