第四三話 山東京伝、嫁を娶(めと)らば 前
「菊園を年内に落(籍)としちゃくれねぇか」
吉原・扇屋〈逍遙楼〉。
いつもの妓楼一階大広間のご内所ではなく、吉原内にある別宅に通された。
静かで瀟洒な部屋の造りで、花魁が大名などを接待する。
高直な料理の膳を向かい合わせ、墨河がいつになく真摯に見つめてくる。
「落とせとは、一体全体どうしたんです? 年季明けを待ってはダメなのかい?」
「菊園を落としたいって客が出たのよ。年季明けの正月に迎えに来るといってる」
「相手は?」
「上方の造酒屋、茶屋吉右衛門の五男坊だ。見るからにいけ好かねぇ小僧で、うちの倅とどっこいどっこいだ。あっちも母親に甘やかされて育ったんだろうね」
「上方の茶屋といったら豪商じゃないか……良縁だ」
言ったとたん、墨河の目がくくくと釣り上がった。
「伝さん。今は、相手とテメーの家格にしょぼくれてる場合でも迷ってる場合でもねえのよ」
墨河は猪口をひと息にあおって、唇を湿らせる。
「おれはな、菊園には惚れた男と添い遂げてもらいてぇの。あいつには番頭に上げてから苦労をかけっぱなしだったからさ。だから、伝さん。肚を決めちゃあくれねぇか」
「でも私はまだ、戯作者のままなんだ」
すると墨河は猪口を膳に叩きつけた。金属のような音をたてて鋭く跳ね、部屋の隅まで転がった。
「おい伝蔵。一回しか言わねえからよーく聞けよ。おめぇの矜持の後先なんざこの際、後でどうとにでもなる。んなことは、惚れた女のためにテメーの胸先三寸で天元を破ってくもんだろうが」
伝蔵はあごが胸に刺さるほど俯いた。
墨河は手前の膳を横へどかし、にじり寄ってくる。
「菊園は貧しさにも慣れてる。妓楼の中で地獄のどん底も味わった。そこを伝さんに掬われたといってんのよ。あんたから手紙を教わった書付はまだ持ってるし、あの田楽豆腐の味だってまだ忘れてねえといってる。そんな菊園を、金遣いの汚ねぇ小僧に上方へ連れて行かれちまったら二度と、あいつは幸せになれねえのっ。百両賭けたっていい。むこうで物扱いされて半年持たずで飽きられて、今度はどこへ流されるか分かったもんじゃねえ。おれはな、少しでも菊園が信じた男に連れていって欲しいのよっ、伝さん!」
「菊園は、私なんかに添遂きてくれるだろうか」
「そうよっ、あいつは伝さんしか見てねぇのっ」
伝蔵は鼻からめいっぱいの息を吸いこむと、膝の上で握り拳を一つ打った。
「わかった。私が菊園を落とすよ。いくら?」
「大晦日までに五十両。あの上方小僧は手付けも置いて行きやがらなかった素人だよ、年明けに伝さんがかっ攫っても文句を言わせねぇよ、なんとか工面してくれるかい?」
「ある。明日にでも、出せる」
「あ、明日? 伝さん?」
墨河が虚を突かれた顔をした。旅から帰った伝蔵が大金を貯えてるとは思ってなかったのだろう。
「ちょっと危ない橋を渡って、褒美にもらったのがある。ちょうど五十両」
「危ない橋、褒美ってなんなの? あんたらしくもねえ」
「稲城にも内緒だからな。墓下まで持っていってくれ。それなら墨河にだけ金の出所を教えてもいい」
この鬼瓦は見た目に反して愛妻家だ。共同経営者でもある稲城に隠し事はしないらしい。
「わかった、いいぜ。お、おれも男だ。男と男の約束だ」
「神稲徳次郎を捕まえる、手助けをした。その褒美」
とたん、墨河の目玉が顔の前にせり出した。
「あのっ大盗賊を? 伝さんが? それじゃあ、長谷川の銕さん、火盗改の手先で動いたってのか。じゃあ何かい。この間の日光まで物見遊山じゃなかったの」
「日光は、誰から聞いた?」
「重三に決まってんだろ。草津湯の賭場で三両勝ち逃げしたせいで、千住宿の川向こうで追い剥ぎに襲われたって。伝さんから遺言を託されたと思い込んで、心底ビビったらしいぜ」
あの書状をそう解釈したのは、実に重三郎らしい。
「重三や喜右衛門も知らない。二人には私が狂ったように自画賛を描きまくったとしか見えなかったはずだ。私はあの旅でずっと、神稲徳次郎の手駒連中の人相書きを描いて、火付盗賊改方に仕立飛脚で送っていたんだ。六三枚。五十両はその褒美」
「うっ、まじ。いや、なるほど。なるほどなるほど、なるほどね」
「誰にも言わないでくれよ。口止め、したからな」
「わかった。わかったって。じゃあ、こっちで段取りは進めていいのな?」
「うん。よろしく……お頼み申します」
結局〈逍遙楼〉の膳には箸も付けられず出てきてしまったが、伝蔵の足取りは軽かった。
「惚れた女のためにテメーの胸先三寸で天元を破ってくもの、か」
妹よねが死んだ時、伝蔵は戯作をやめようと思った。
でも他にすることがなくて、からっぽ京伝。いまだに戯作を手放せなかった。
もしかすると、これからは相談できるのかもしれない。本音で。
伝蔵は懐に小さな灯火をもって吉原大門を出るのだった。
「やっと、この日が来たか……っ」
菊園との身請け祝言を両親に報告すると、父伝左衛門の第一声は魂が抜けるような歓嘆だった。伝蔵も低頭しながら、目が潤んだ。
「あの、吉原から嫡男の正妻を迎えることになりますが」
へりくだった眼差しで両親を見ると、父伝左衛門がぴしゃりと膝を叩いた。
「伝蔵。夫婦は身の貴賤で決まるもんじゃない。互いに外からやって来て、一つの屋根の下で睦まじく生活を続けていくうちに馴染んで家族になるんだ。気張りなさい」
叱咤激励され、伝蔵は改めて父親の度量に感謝して、低頭した。
「もうっ。もうっ、遅いっ、遅いのよ、伝蔵さんっ!?」
母大森が泣き笑いながら、のうらく息子の背中を叩く。よねの生前に決めてほしかったのだろう。
伝蔵も言葉なく何度も頷くしかなかった。
父伝左衛門は香ばしい顔で袖に腕を通した。
「そうと決まれば、媒酌人を立てなきゃなあ。宴席の場所も……このうちじゃ前に大通りがあるから、招待客で混み合って大変なことになるからな」
「旦那様。それでは料理茶屋も大きいところを予約しませんと」
「そうだなあ。ただ年の瀬でどこも忙しいから、相当の出費は覚悟しないとな」
「あのっ。身請けは年内で、祝言は正月を外して二月にしようかと。年末年始は私も吉原も、挨拶回りで忙しいので」
「それもそうか。二月となれば、どこもひと段落しているな」
両親も長女の時と勝手が違うらしく、心なし舞い上がっているようだ。せっかちに段取りに気を回し始めていた。伝蔵もなんだか照れくさくて仕方ない。
「媒酌人はやはり、新両替町の名主さんにお頼みするのですよね?」
母の懸念に、父も小首を傾げた。
「そう、なるのかな。町年寄の樽屋与左衛門様にはおいでいただくことにはなるだろうが」
江戸には町政の最高位に町年寄があり、町奉行の直下位にあたる。町年寄は奈良屋、樽屋、喜多村の三家に定まっており世襲制だ。その下に各町の名主が連なり、そのうちの新吉川町屋敷名主で、薬種小売店虎屋の下に父伝左衛門の家主がいる。
父は社会儀礼として目上の上司の名主を媒酌人に立てたほうが、今後の仕事にも摩擦がなくてすむ。この媒酌人には、新郎新婦の身元や馴れ初めを事細かに|話しておく必要があるので、伝蔵の新妻が吉原出身という情報は良くも悪くも、まずここから各町内へ拡がっていくことになる。が、
「でも、ここの新両替町と吉川町とで揉めませんか?」
「二人ともやりたいって言い出すかもなあ。どっちも何気に山東京伝贔屓らしいから」
父は面倒くさそうに耳の後ろを掻く。
「あの、それでは私は、招待客の手紙を書き始めますので」
「伝蔵、待ちなさい。手紙の前にまず招待する名前を書き出して、ここに持ってきてくれないか」
「名前だけですか?」
「四方赤良先生や北尾重政師匠、あと桂川家(森島万蔵宅)にも手紙を出すのだろう。そうなったら来客の数がねずみ算どころの騒ぎじゃないくらい増える。あと、お前を支援してくだすったお武家筋にも招待状をイの一に送らねばならんだろう。その数と名を見て、向こうの家格に沿わせた料理茶屋を探す必要がある」
「あ、えっと。はい、わかりました。書いて参ります」
さすが実務家の父は手配りを心得ている。けれど笹葉鈴成(松前藩主の弟、現三千石の大身旗本)や酒井抱一(姫路藩主の実弟)、桂川(将軍奥医師家)に合わせて祝宴の茶屋を選ばないといけないとなると、先立つものが怖ろしいことになる。
今更ながら、豪商でもないのに上流階級に友人がいる、うちが特殊なのか。
「気が滅入るほど忙しくなりそうだ。先に重三に伝えて、来年の執筆はナシにしてもらおう」




