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京橋の伝と本所の銕(てつ)  作者: 泥亀草也
第四章 他不知思染井(ほかしらずおもいそめい)
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第二八話 八朔(はっさく)の祝い



 八月一日。夏行事〝八朔(はっさく)の祝い〟は、一年を通して吉原で最も重要とされる行事である。

 この日は徳川家康が天正十八年(一五九〇年)に江戸入府を果たした日であり、徳川幕府にとって開闢かいびゃく記念日だ。


 江戸城殿中において、五つ時(午前七時ごろ)には大名諸侯が白帷子(しろかたびら)長袴(ながばかま)で将軍を待ち、将軍もまた白帷子に長袴姿で諸大名や旗本たちにお目見えする。

 東照大権現の偉業を讃える大切な日であり、白は八朔行事のシンボルであった。


 一方、江戸市中でもこの日に特別な行事を催す記録はごくわずかだが、吉原では武家社会にあやかって恒例イベントを開く。すべての遊女が白無垢の姿で仲ノ町を練り歩く。行事開催は午前中だけなので見物に来る客は毎年、老若男女が朝から大挙して訪れた。


 番頭新造は、客を取らない年増遊女が花魁の裏方として立ち回る役職だ。


 花魁の身の回りの世話にはじまり、花魁が接客する予約管理や客から届けられる贈り物やご祝儀の把握、花魁付き禿(のちの留袖新造)への教育係としての面を併せ持つ。


 そして接客中も補助に徹し、伴奏や小道具の用意。花魁が客と(とこ)()りとなればねやの別室に控えて徹夜の番。客が興奮のあまり花魁へ暴行を働いたり、卒中で昏倒しないか襖ごしに監視する。いわずもがなの激務だった。


 妓楼扇屋の花扇(はなおうぎ)ともなれば、大名が通う吉原一級の〝呼び出し〟花魁である。その取り巻きである番頭新造も常に緊張が続き、(かわや)へ行く時間がその日唯一の休憩という日もあったという。なので花魁の周りには三人から四人の番頭新造が当番制で持ち場をローテーションしていくが、休みはない。ゆえに脱落は多い。


 そんな忙殺職に就いた菊園に、伝蔵も家族を引き合わせる術がないわけではない。

 要は、彼女の上司となる花魁の花扇を予約すればいい。伝蔵にはそのツテがあった。


「会うだけなら、八朔祝いの日だけだな」

「ああ、それでいいよ」


 伝蔵が即応したので、扇屋主人・墨河は怪訝な視線を向けてきた。


「伝さんよ。おめぇさん、なあに企んでんの?」


「企んでいるのは私じゃないよ。家族が言いだしたことなんだ。少し前に菊園から私宛ての文が届いた。番頭新造になるから当分は会えない。次が最後になるかもしれないって」


「最後……それで?」


「私がその期日を会わずじまいで逃した。ほら、例の洪水やら戯作やらで。そしたら、その文を家族に拾われて菊園通いがバレて、灰をかけたつもりの熾火(おきび)から出火だよ」


「はん。その割に慌てた顔してないじゃないの」


「墨河。本当に私が望んだわけじゃないんだよ。家族が、母と妹から会わせろって詰め寄られて、仕方なくだよ」


「さよかい。さっさと身請けしねえから、そういう妙なことになるんじゃねえの」


 核心を突かれて、伝蔵も返す言葉がない。


「私は……身を固めるなら戯作者で、とは考えてないんだ」


「あんだけ世間騒がせた〝艶二郎〟が、何を今さらへっぴり腰なこと抜かしてんの」


「戯作者じゃあ、家族に飯を食わせてやれないよ」


「重三郎から金を搾り取る生活は嫌だって? 俺に言わせりゃ、山東京伝がひと言いえば百両二百両は出すだろう。重三(じゅうざ)はそういう男だ。欲張らなきゃ、今からでも向こう十年は安泰だろうに。それとも、板元にぶら下がる生き方に飽きちまったの?」


「墨河。今日の私は、身の上話をしに来たんじゃないよ」

 伝蔵はくらい目で、妓楼主人を見つめた。


「そんな怖い目をしなさんな。さっきも言った通り、花扇は本当に八朔祝いの日、それも一刻(二時間)の座興分だ。あとは年明けまで、予約は全部埋まってるからな」


「わかった。八月一日の午前だね。それでいい」


 伝蔵は墨河の長火鉢に、切餅一つ(二五両)を置いて立ちあがった。

 会いたい女に会うのに、他人の金を使わなきゃ会えない男の気持ちは、墨画にはわかりっこない。



 八朔はっさく祝いから戻って、よねの様子が少し変わった。

 これまでは納戸(なんど)の布団の上で、伝蔵が買ってくる戯作をしゃちほこ読みして日がな一日、ごろごろ暮らしていた。


 それが布団を百樹の部屋に引っ越しすると、深夜遅くまで二人で構想を話し合う。

 陽が昇ると床を上げ、髪を頭の上に高く結ってお気に入りの道明寺烏(どうみょうじがらす)の浴衣に帯をきりりと締め、納戸の中に置いた文机に向かった。


 伝蔵は彼らの戯作を校合(きょうごう)(確認作業)し、挿絵を描くことになっている。

 内心では、よねに戯作者になる覚悟がついに定まったのかと驚いた。菊園が花魁花扇と白無垢姿で舞う姿に感化されたのかもしれない。

 そして九月。板元への入稿期限ぎりぎりで山東鶏告(けいこう)・山東唐洲(とうしゅう)の合作、洒落本『夜半の茶漬』が完成した。


「うんっ。よし、挿絵を入れよう」

「兄様。こちらも校合をお願いします」


 よねが差し出したのは二部の戯作。黄表紙『〈首尾松見越松〉雪女(さとの)八朔(はっさく)』。巻末の筆者口上に、伝蔵は口許をほころばせる。


私儀(わたくしのぎ)、年来白壁の中にしゃちほこめくらして暮らし、(中略)すなわちち唐洲をくんじて読めば、からす初声はつごえただアホウアホウとご評判願い上ます』


 四畳半の壁に囲まれてきた自身の境遇を匂わせつつ、京伝節の軽妙な調子にもっていく流れだ。黒鳶は(からす)(やつ)して渡っていくらしい。おそらく百樹が「戯作者は読者に舐められたらお終いだ」と言い含めたのだろう。

 もう一冊は洒落本『曽我(ぬか)袋』。巻末には『待宵 新妓婦志 唐洲述 全 近刻』と予告まで入っていた。


「もう続編まで用意しているのか。すごいじゃないか、よね」


 深く感心して褒めると、よねはヘラリと笑い、そのまま頭から畳にむかって崩れ落ちた。

 伝蔵もとっさに戯作を持ったまま妹を胸で抱きとめた。

 よねは伝蔵の胸に顔を埋めたまま、両手で背中に腕をしっかりとしがみつく。


「よねっ、大丈夫か。よね?」

「わたしだって、菊園さんに、負けたく……なかった、から」

「百樹っ、母上を呼んできてくれ!」



「あれほど無理してはいけないと、言ったのに」

 よね本来の自室、両親の部屋で横たわる娘を団扇であおいでやりながら、母大森があきれ顔で叱る。

「続編とやらは来年になさい。いいわね」


 よねは母の言いつけを無視したかと思えるほどの時間を使って頷いた。

 母は大きなため息をついて、団扇(うちわ)で娘の肩を叩いた。


「母様」

「うん?」

「菊園さんのこと、どう思っていますか?」

「さあ、わたくしより、本人たち次第かしらね。とくにうちの唐変木(とうへんぼく)が煮え切らないようだし」

「……」

「ねえ。どうしたの、よね。ちょっと変よ?」

「ううん……なんでもありません」

 よねは薄い胸を膨らませると、長い安息を吐いて目を閉じた。


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