第二九話 百樹を武家に
天明七年九月二五日。
去る十九日。新町奉行・石河政武が在職中に死去した。
政武は、尾張藩家老石河章治の三男で、町奉行・大目付・西ノ丸留守居を歴任した旗本・石河政朝の養子となる。伯父は尾張藩附家老の竹腰正武。
余談になるが、竹腰正武は藩主宗勝の治世に辣腕をふるい、宗勝からの信任も厚く尾張松平家を支えた。三四歳で逝去し、嗣子がなかったため藩主宗勝が五男の勝起を養子に入れて竹腰家を存続させた。
さて石河政武は、登城する輿の中で卒中を被ったとされ、現代医学では長びく残暑による熱中症および脱水症状による急性心筋梗塞や脳溢血の可能性が推測されている。
葬儀には尾張縁故の旗本や御家人、町方与力に混じって、上方や名古屋の商家も混じっていた。これは竹腰正武が生前の気配りが残した石河一族への厚誼の顕れでもあった。
「おや、これは懐かしい顔だこと。貴様、大森ではないか」
後方からかけられた女の声に、母大森は振り返るより先に道の脇に移動して頭を下げた。百樹も母の横でそれに倣う。
「お久しぶりでございます。槇島様も、ご壮健で」
「息災であったことも意外だが、また見えようとは奇縁よな」
クスクスと笑う女たちの嘲笑の中、大森の黒小紋の肩に扇子が乗った。にじるように。
「して、となりの若衆は、貴様の倅かえ?」
「左様にございます」
「で、あるか。──そなた、名は。どちらの藩より禄を受けておる?」
百樹は頭を下げたまま背筋を強ばらせた。
「岩瀬相四郎と申します。吉川町家主の倅でございます、出仕はいたしておりません」
「士分町人……歳は」
「十八になりましてございます」
「大森、貴様も子煩悩なこと。わが子を元服後も仕官させぬとは不届きではないか?」
「恐れ入ります」
「どうじゃ、倅を麹町の中屋敷へ──」
「槇島様。石河様の御霊前でございますよ」
別の女性から横槍が入ったが、母大森は頭を下げた姿勢を崩さなかった。
百樹はやってくる足音の主を盗み見た。
母と同年代の四十前後。小柄でふっくらしていたが端整な目鼻立ちの淑女だった。
「こ、これは掃部いや、鵜飼の方」
「ご無沙汰いたしております。尾張家御年寄の槇島様には懐かしさもございましょうが、ここでは御家中だけでなく、わたくしのような他家の視線もございますれば」
「くっ。ふんっ。興が冷めたわ」
三人の女性たちが、高貴な香の尾を引いて本堂へ去っていく。
その先で小坊主が本堂前の一般弔問とは別の道へ案内していった。
「お久しぶりですね、大森殿。この方が、あの時の?」
「いえ、二男です。それよりも掃部殿こそ、どうして」
「わたくしは今、篠山藩青山家に鵜飼家扶養になっています」
母大森が目を見開いて、息を飲んだ。
「やしない。それでは、あなたが藩主ご生母の勢様っ?」
「ふふっ、藩主の実母となって鵜飼家に下がり、名を改めました。青山宗家の御台所様付小姓に過ぎなかった女が世の中どう転がるものか分かりませんね。藩主二代に渡って養っていただいています。一昨年にご長男忠講公が逝去遊ばされて、今は二男の忠裕公から」
「二人とも、それでは鵜飼家は? 申し訳ございません、出すぎたことを申しました」
「いいえ。もうわたくしだけです。夫の等伯も嗣子がないまま、安永二年に」
本堂から大徳寺鈴が鳴った。葬儀が始まるらしい。
勢と母が呼んだ女性は、目顔で辞去を告げて会場へ歩き出した。
「母上、あの方は?」
母大森は一度だけ俯いてから、顔をあげた。
「返し尽くせない恩義がある……わたくしの妹です」
いつになく母が複雑な感情に翻弄された口調で、戸惑う二男をまっすぐ見つめてくる。
「百樹。あなた……武士に、なりたくはありませんか?」
「えっ、母上、どうされたのですか?」
目をぱちくりさせる二男に、母大森は自分の焦燥を振り払うように顔を振り、
「もちろん。今すぐに、というものではありません。でも願わくば」
遠ざかっていく小さな背中が見えなくなるまで見送った。
「わたくしはかつて彼女に……彼女の恩義に報いたいのです」
「百樹を武家に、か……」
手をついて頭を下げる愛妻に、父伝左衛門は思案顔を虚空にあげた。
「たしかに篠山藩、譜代青山宗家の家中士は良縁であるけど……なあ、伝蔵」
話を振られても、聞き役に徹していた伝蔵は顔をしかめるだけで、
「母上の事情は分かりましたが、詰まるところは百樹の胸一つではないでしょうか」
と応じるほかなかった。
伝蔵とて狂歌界で高貴な武家とも関わってきたが、必ずしも気楽な稼業ではなさそうだった。
自分の家から武家社会へおくり出すことは伝蔵の想像を超えた。
「武家へ養子となりますと、これまで八丁堀の加藤千蔭先生や大富町の道場に通わせたことに意義も出てきます。──百樹、道場で認可はもらっているか?」
百樹は一瞬、黙り込んだ。
「五年通って去年、初伝目録をいただきました。門弟に気前のいい館主のようで」
弟の目が不服そうに泳いだのを、察しのいい伝蔵は見逃さなかった。
「ちなみに、左七郎どのは?」
「うっ、ぐっ。初伝目録です……二年で」
どうやら弟の滝澤左七郎への敵意はここにあるようだ。剣師匠の見立てでは、町人より御家人の方が太刀筋がいいらしい。長身だし、体格も百樹とひと回りも違う。
なんにせよ、百樹には武士になる素養下地はできていたのだ。
伝蔵は剣術とは無縁だった。長唄の松永師匠や画の重政師匠からも喧嘩、賭博、道場通いは即破門だといわれた。剣術は手を痛めやすいし、人斬り稽古をする暇があったら三味線や画の修行に励め、というわけだ。素振りは母大森に家でやらされたが、やはり道場での稽古とは比べものにならなかった。
父伝左衛門は弱り顔でうなじをつるりと撫でて、
「あの蜊河岸道場はずっと落ち目だったんだよ。直一さん(二代桃井春蔵)に頭下げて頼まれたから、門弟の数合わせで通わせてただけだ。ヤットウのことはよく分からんが、町人剣法なんざ素っからの武士相手に歯が立たんだろ?」
「親父殿。実技の優劣よりも、今は百樹に武家の素養があることこそ肝要なのでは?」
「ん? んーまあ、そうなんだが……百樹、お前どうするよ」
岩瀬家の家長と長兄に見つめられて、百樹は目線を下げて耳の後ろを掻くばかり、
「わかりません。雲を掴むような話なので。先方への根回しもこれからみたいですし。でも母上の願いは、叶えてあげたいと思っています」
「なら、山東鶏告はどうする」
「それは……養子縁組が決まるまで続けます。悔いが残らぬように」
「そうか」伝左衛門が伝蔵を垣間見て「なら、それまで自分の身の振り方をしっかり考えなさい」
父は畳についたままの愛妻の両手を取り上げた。母大森は顔をあげようとしない。
「大森殿。あなたが引いてきた良縁、百樹の将来を家族みんなで考えているのです。どうして泣くほどのことがあるんですか」
「ありがとうございます。わたくしの我が儘を聞いてくださり、ありがとうございます」
背中をさすって母を慰める父の目を盗むようにして、よねが部屋を出て行った。




