第二七話 面相(かお)
打ちこわし騒動から二ヶ月が過ぎた。
米価は相変わらず高天井だが、市中は打ちこわしがあったことが夢みたいに平静を取り戻していた。
「土用の一の丑に鰻を食うといいそうだぜ」
伝蔵は両国橋そばの〈井筒〉で、長谷川平蔵と蒲焼きを肴に酒を酌み交わす。
父に頼んで、ツナギをつけてもらった。
長谷川平蔵に会うべきかどうか、父とも相談してさんざん迷った。
自分の勘違いでつつき回して藪から蛇をだしては目も当てられぬ。
「どうした、伝蔵。食わねえのか。好物だって聞いてるぜ」
「ええ、そうなんですが……」
「ふむ。なんか判じ物を見せてくれるって話だったな?」
気さく軽妙な調子を崩さない長谷川平蔵に、伝蔵は箸を膳に置き、畏まった。
「わたくしの取り越し苦労だったかも知れませぬことを、まずお詫びさせていただいた上で見ていただきたい〝面相〟がございます」
「顔、か。うん、わかった。後で見よう。まずはおあがり」
「ありがとう存じます、ご相伴させていただきます」
お銚子を向けられて、伝蔵も両手の猪口で受ける。
「まず、その顔。見た場所はどこだい」
「京橋北の万町、万屋作兵衛の前でした」
「万屋作兵衛っていやあ、京橋の米問屋か。なら、お前も見に行ってたわけか。ふーん、戯作者ってのは物見高ぇもんだなあ」
意地悪な笑みを浮かべる長谷川平蔵に、伝蔵はそこへ至るまでの経緯を話した。
よねの心痛で天真楼まで戸板で運ばなければならなかった。そこで打ちこわしの群衆に足止めを食わされたが、彼らは非常に統制がとれており、その陣頭指揮をとっていった若者が拍子木を使い、木戸番の火事警鐘を真似て京橋の町木戸を閉じさせたことだ。
伝蔵の話を、長谷川平蔵は酌を猪口に受けながら聞き、軽く精悍な眉をひそめた。
「あれの何が凄まじいって。市中で襲われた米問屋や米搗き屋は千軒を超えたのに、ケガ人は数人。死者はなかったってんだから、終わってみれば風邪や麻疹みたいな妙な騒ぎだった」
「はい。父から聞いた話では、町方に捕まった者も食い詰めた小盗人ばかりで、打ちこわしの主謀者は結局、逃げおおせたのだとか」
「うん。曲淵殿が打ちこわしは町人と米屋の喧嘩と断じたことが大きい。あの人は、いつか起こる喧嘩を先延ばしにしようとしてただけだったのかもな」
米屋の売り渋りに腹を立てていた江戸っ子は多かった。町奉行所の手落ちや不心得があったとは言え、町人の不平不満の爆発は起こるべくして起きたことだった。
だが、あそこまで人々が整然と加担した地域制裁活動は、本当に衝動的犯行だったのか。
「もっとも、捕まえた中で九人は牢から出られなかったがな」
「出られなかった? どういうことでしょうか」
「町方が責めたのよ。石を抱かせてな」
伝蔵は驚きに言葉を失った。
長谷川平蔵は猪口を舐めて、唇を苦そうにゆがめた。
「妙な九人でな。打ちこわしの現場で小銭を盗んだ廉だったが、身元を洗ったら大半が棒手振り、住所地もしゃべった。ところが当地の家主はおろか近所住民が誰も知らねえとよ。それで徹底的に責めたらしい」
「罪に問われぬ打ちこわしで、あえて身元を偽っていた。では、その九人は今?」
長谷川平蔵は日常茶飯事とでもいいたげな無感動な息をついた。
「さあな。口を割ったって話も俺んとこまで聞こえてこねえな」
拷問の末は知らぬが仏か。怖ろしい世界に踏みこんでしまった。だがもう後には退けない。
なんでもいい。今は金が欲しいのだ。伝蔵は固唾をのんだ。
「それでは、ご覧いただけますか?」
伝蔵は懐から美人画用の上等な奉書紙の小判二通を渡した。
人相書きであった。
長谷川平蔵も箸をおいて両手に紙を持った。
「こりゃまた、まるでここに生首があるようだな」
「恐れ入ります」
普段から描いている美人画とは異なる。人を静物のように見つめ直し、立体的に目鼻立ちをつけた。
伝蔵の師・北尾重政が平賀源内から教わったという和蘭陀の描画法で『解体新書』(画師は小田野直武)の図解にも応用された。いわば北尾一門、門外不出の奥義だった。
「こいつらが、万屋作兵衛かたの打ちこわしを主導していたと?」
「はい。右手、町人風の優男は灰汁染めの棒手振りを装っておりましたが、立ち姿は侍でございました」
「侍、なるほど」
「左手は担ぎ人足風で、身丈は六尺(一八〇センチ)。筋骨は太く、上州訛りがあり、優男から指示をもらって動いていた様子でした」
「ふむ」
「打ちこわしの翌日に、万屋作兵衛へ父とお見舞いに向かいまして、被害の程を聞いて参りました」
「ほう。それで何を盗まれていた」
伝蔵はそつなくお銚子を差しむけて酌をしながら、
「書き付けだそうです。それと東北の米問屋から届いた飛脚便をいくつか」
取引先は、陸奥南部の岩代、磐城。そこから江戸へ運び入れる公儀買米六百俵の判取帳。手紙は輸送の日どり、通るはずの街道筋を記したものらしい。
「公金で買い付けた買米六百俵、どこを通って江戸に運ばれるか訊いたか?」
「作兵衛本人が申しますのは、二月後の九月六日に磐城を発ち、日光街道を上って二五日に江戸へ入る予定だそうです」
長谷川平蔵はぐいっと飲み干したお猪口を膳に叩きつけた。
「惜しいっ。ぎりぎり間に合わねえっ」
「長谷川様?」
「俺は今年の九月九日付で、火付盗賊改方頭の就任が決まっている」
「えっ。それは、誠におめでとうございますっ」
「うん。だがな伝蔵。俺の立場は当分加役(冬季限定の兼務職)だし、そこから探索を始めるのは遅すぎる。本役は来年の秋に定まるとして……こいつは後手に回るぞ。だがそうか、あの打ちこわしにはそういうとんでもねぇカラクリがあったか。うくくっ、やってくれるじゃねえか千両役者、大した悪徳支度だ。あんだけ規模が大きくなりゃあ、お天道様も気がつきもしねえだろうぜ」
ひとり盛り上がっているのを眺めて、伝蔵も戯作者として好奇心が疼いた。
「あの、長谷川様。一体何に思い到られたのでしょうか。お聞かせいただいても?」
「ん、まあ。俺もテメーでひらめいた妙案が突拍子もなさ過ぎて、まだ半信半疑だよ。教えてやってもいいが、戯作にしてくれるなよ。少なくとも俺がいいと言うまでな」
なんとなく返事をしなかったら、真顔になられたので伝蔵は慌てて平伏した。
「五月の打ちこわしを煽ったは、神稲徳次郎の手の者だ」
伝蔵はとっさに誰か分からず、記憶の糸をたぐり寄せる。
よねがお気に入りだった黒鳶(夜盗)だと気づいて目を見開いた。
「神稲徳次郎といえば、北関東を中心に荒らし回る大盗賊でございましたか? それでは先ほど牢死した身元不明の九人というのは?」
「察しがいいな、伝蔵。おそらく手下のごく一部だろうな。責められても口を割らなかったのは小者悪党ながら天晴だ。徳次郎には今、六十から八十人近くの手下と、日光街道には八百前後の協力者がいるって話だ」
「そんなに。それでは彼らは江戸市中の米問屋を打ちこわし、米の江戸輸送の手引きの覚書きを衆人環視の中、盗んで廻っていたと?」
「伝蔵、考えてもみろ。家屋、家財、植木鉢に至るまで一切合切うち壊すんだ、その中で小判や丁銀、文銭や捨て米に触れればお縄だが、その家の商人にしか分からねぇ書簡や帳簿は誰も目を向けねえ。素知らぬ顔で一丁二丁を破いて懐に入れ、残りは水溜まりにでも踏みつければ盗まれたとも思うめぇよ」
長谷川平蔵は、奉書紙に描かれた生首を改めて見つめた。
「くくっ、この見立てがもし的を射ていたら伝蔵、お前のこの〝面相〟は大手柄になるかもな」
あの打ちこわしは、神稲徳次郎一味の御用米街道強奪計画だった。現は戯作より奇なり。長谷川平蔵の頭の中は一体どうなっているのだろう。
「ときに伝蔵、お前今度、旅に出ようとか思わねぇか?」
「旅、でございますか?」
突拍子もない提案に、伝蔵は目をまん丸にしてしばたたいた。が、そこは察しのいい戯作者山東京伝、すぐに嫌な予感が全身を駆け巡った。
「長谷川様……それはつまり、私をっ!?」
「まあ、待て待て。そんなに縮こまるなよ。さっきも言ったが、どう足掻いたってこのヤマは公儀が後手に回る。俺がこの生首を袖に入れているうちはな。近頃は火付盗賊改方への予算を渋りがちだって聞くし、新しい幕閣がどこまで神稲徳次郎に本腰を入れるかにも掛かってる」
……この人も大概の悪党だ。重三郎寄りの。
「宮仕えも、お辛いのですね」
長谷川平蔵はしみじみと鰻を味わってから、お猪口を差し出してきた。




