第二六話 天明恐慌 後
天明七年六月。
白河藩主松平越中守定信が老中首座に就任した。
当初、主座の候補には一橋治済から御三家側へ、白河藩主松平定信、小浜藩主酒井忠貫、大垣藩主戸田氏教の三名が老中に相応しい旨、書簡を送って打診する。
老中は寺社奉行兼任の奏者番、若年寄、側用人などの譜代大名の中から選ばれるのが通例であった。
一方、松平定信はそれらの役職を経ておらず、また八代将軍吉宗の孫という親藩大名であり、その経歴で老中に選ばれたことは異例ずくめの人事だった。
大老井伊直幸と大奥お年寄を相手に人事を推しきったのは、参議・一橋治済であった。
五月二五日。江戸の打ちこわし騒動は鎮静化していた。逮捕者は三七名。その大半が地方から来た棒手振りや左官などの貧困者だった。
六月初旬。曲淵景漸は町人からの更なる暴動を懸念したか「町人と米屋とのただの喧嘩」として軽い処罰を裁定を下した。
その後、曲淵は打ちこわし騒動の原因、食糧対策の遅れの責任を問われて罷免。西の丸留守居に降格となるが、翌年に才覚を惜しんだ松平定信によって勘定奉行に抜擢されることになる。
また現場総責任者であった北町、南町両奉行の年番与力(一名ずつ)は御家断絶、江戸追放という厳罰処分となったものの、処分はこの三名に留まった。
曲淵の後任として、石河政武が六月十日に北町奉行に就任した。
ところがそのわずか三ヶ月後の九月十九日に在職中死亡。後任には田沼意知刺殺事件で佐野政言の凶刃を打ち払った目付・柳生久通が就くことになった。
年号はいまだ天明。しかし時代は次の波の到来を確定づけた。
翌七月。
「吉原に行きたいんです」
よねが心痛から復調するや、家族の心痛もなんのその。急な思いつきを口にした。
「お前さぁ」百樹がうんざり顔を向ける。
「行きたいのっ。行かなきゃ死ぬに死ねない」
実際に死にかけた妹から死を口にされると、皮肉屋の百樹も敵わず兄に助けを請う。
伝蔵も弱りきったが、一応話を聞いてやる。
「なんだって吉原に行きたいなんて思いついたんだ?」
「だって、これ」
よねが出してきたのは、吉原から伝蔵に届いた文。差出し名には「菊」の字。
伝蔵は素知らぬ顔で取り上げ、急いで袖の中にしまいこんだ。
「なんです?」
百樹も好奇の鎌首をもたげたので、伝蔵は小さく舌打ちした。
「ずいぶん前に処分したやつだ。……菊園が、花扇の番新(番頭新造)に昇格するんだ」
「花扇というのは?」
「花魁の〝呼び出し〟(トップクラスの遊女)の名前、ようは扇屋の一番だ」
「へえ。その番頭ですか。あの姉さんもご出世ですね」
伝蔵は一応頷いたが、もう八年も通っていると、その揚屋の台所事情というのが透けて見えてくる。
扇屋も降って湧いた正念場なのだ。
先日、扇屋で二代瀧川の葬儀を済ませ、三代瀧川の襲名披露があった。
菊園の妹が十六歳で瀧川の名を背負って留袖新造となった。
留袖新造とは、十七歳から客を取る振袖と違い、花魁になるべくして客を取ることなく知識、教養、礼儀作法、娯楽を英才教育させる育成枠のことだ。もちろん、ひとつの揚屋で抱える留袖新造は一人や二人ではない。その輝きを見込まれた少女たちが、熾烈な過当競争をのし上がる。
中には留袖のまま花開かず二十歳を過ぎて散茶(最下層遊女)に墜ち、三十前の年季明けに河岸(低級揚屋)で身を持ち崩すことになる。
また花魁名は名跡なので、襲名という形で地位を動かさず受け継がれていくものだが、あえて留袖新造に名跡を落としての襲名は異例だった。それゆえ新瀧川を再び「呼び出し」に返り咲かせようと、扇屋主人夫婦の鼻息も荒い。
「扇屋の未来を背負って立たせる二枚看板は、花扇と瀧川しかいない」
と思い定めてのことだろう。
「伝蔵さん。わたくしも一度、吉原を見てみたいと思っていました」
廊下ではなく百樹の部屋から襖を開けて母大森が入ってきた。
ぎょっと振り返る伝蔵をしり目に、母は体調を気遣うように娘に寄り添い、薄い背中を撫でてやる。
「母上まで、勘弁していただけませんか」
「よねから聞きましたよ。菊園という方は最近あなたの戯作によく登場するんですって?」
「よく、ではありません。その、たまにです」しどろもどろに弁解する。
「あなたのお陰で、その方は人気も出たようですね」
「さあ、どうでしょうか。彼女の頑張りという気がします」
「人気戯作者、山東京伝が謙遜ですか?」
「いえ、吉原では私も、ただの客ですから」
「あれ、一晩かけて字を教えたという話は?」
百樹が余計な口止め破りをしたので、その耳を兎の耳ほども引き伸ばして黙らせる。
「伝蔵さん、家族には引き会わせられないと?」
黙秘。伝蔵初めての母への抵抗、回答拒否である。
「その番頭新造昇進の宴、一晩の費えはいかほどになりそうですか?」
話を進められた。伝蔵も重箱の隅に追い詰められていく思いで嘆息する。
「番頭新造は花魁の世話役です。客は取りません。花扇をお座敷に揚げることになりますので、ご祝儀を含めて二十五両ほどでしょうか」
「たっか!?」百樹が目を剥いた。
「山東京伝は今、それくらい稼げているのですね」
「はい、まあ……おかげさまで」
そんな大金を手許においたことはない。重三郎に言えば、子どもに小遣いを渡すように切餅をだす。
母大森はそっと微苦笑すると、よねの背中をあやすように軽く叩いた。
「吉原へ、夕涼みがてら出かける用意をしましょう」
「母様っ!?」
よねが青空に咲く桜のように表情を輝かせた。
「くれぐれも、これが冥土の土産などではありませんよ。あの戯作のためです」
「はい、承知しております!」
母は厳しくも情が深い。よねの戯作完成まで後見につくらしい。伝蔵はいろんな意味で汗をかかされる夏の吉原参りとなりそうだった。
「明日、人と会いますから夕餉はいりません。吉原とは別件だから、百樹もついて来なくていいからな」




