第二五話 天明恐慌 中
のちの『内外国事記』によれば、
天明七年五月十五日すぎから両国橋、永代橋、新大橋などから投身自殺が多発した。
町奉行所は橋番人を増強し、橋からの投身自殺の監視を強化。すると今度は渡し船からの投身自殺が続出したため、五月十八日以降、船による河川渡航も禁止となった。
奉行所も抜本的な次善策がないまま対処療法しかできず、後手後手に回っていた。
五月十九日。町奉行所は公式に穀物問屋と仲買に対し、大豆の値段を下げるように指示、また市中には食料に適した大豆食を勧奨する町触れを出した。
二十日。町奉行所は米の売り渋りを行う米卸問屋ならびに仲買商への立ち入り調査を行うも、空振り。
そして翌日の、二十一日。本船町、伊勢町、小舟町の米仲買商から米の購入ができる通達を出す。
ところがこの通達には奉行所の落ち度があった。米の小売価格を異常高騰した相場のままで販売することを許してしまう。口頭決定と書面手続の不一致により、お救い米とはならなかった。
この奉行所の不備対応に、町人たちの奉行所への失望は深かった。
我慢に我慢を重ねて昇華した怒りは見えない炎となって、その日のうちに江戸市中に飛び散ることになる。
「そうだ、大豆と言えば……っ」
仕事の筆を止めた伝蔵は天神机からふと顔をあげて、ある黄表紙を思い出した。
「なあ、よね。下り本(上方から江戸へ販売された書籍)でさ」
「豆腐でしょ。いま、読んでまーす」
返事されて伝蔵も納戸の襖をちょっと開けると、よねが仰向けで黄表紙を読んでいた。
表紙の名は『豆腐百珍』。
天明二年(一七八二年)に上方で出版された料理本で、百種類の豆腐料理が掲載されている。著者は醒狂道人何必醇。版元は春星堂藤原前七郎。
本誌には、その調理法まで解説し、各豆腐料理には「尋常品(一般的)」から「絶品」まで六段階に作者流の評価がつけられている。食べたことがある豆腐料理の評価に共感できると、上方だけでなく江戸でも大評判になった。
「なあ、よねー。お前も書けよー」
兄の脇に並べた文机から百樹が筆を走らせながら背中ごしに妹へ不平をいった。
……。
「ちょいと唐洲さんよぉ。半分はお前の仕事なんだからなー。戯作者として少しは自覚」
ばさっ。
納戸で冊子の落ちた音がするや、二人は筆を振り捨て腰を浮かせた。
伝蔵が納戸の襖をめいっぱいに開け放っていた。
「ぅううう、ぐっぅうううっ」
妹が体をくの字にし、胸をおさえて脂汗を流していた。
「よねっ!? 百樹、薬を」
「全員いるな、家から誰も出るなよ!」
伝蔵の慌てる声が玄関口から父の厳しい大音声がかき消した。
「父上、母上、よねが!」
百樹が叫ぶと、二人が廊下を駆けてくる。
廊下側の障子が開くと両親の顔がそろって色を失った。
「よねっ、よねっ!」
母が部屋に入るなり、お盆の水差しと一緒に載せた薬袋をつかんだ。中を開くが、薬包が入ってなかったらしい。母は愕然とした様子で目線を虚空に泳がせた。
「どうして、どうして今日は天真楼の往診がまだ来てないの、どうしてっ?」
「親父殿、出てはならぬとは、外で何かあったのですか?」
伝蔵が見つめると、伝左衛門は苦渋に凝った顔でうめいた。
「米屋が、万屋作兵衛さんの店前に鳶口や木槌をもった連中が取り囲んでいた」
「万屋さんで、また火事ですか?」
北京橋の万屋作兵衛宅が先日、火付けとみられる小火騒ぎがあったばかりだ。
伝左衛門は自分の見聞きした事実を凶兆のように吐き捨てる。
「打ちこわしだ。見た限りで男たちが鳴り物を持って江戸橋の木戸から入ってきた。数は五、六十人くらいになりそうだ」
「京橋町の家主と名主は」
「呉服町橋を血相変えて渡っていくのは見た。万屋さんの窮状を奉行所に知らせに向かったのだろう」
北町奉行所は日本橋南地区の西、呉服町橋御門を抜けたすぐそばにある。
「それじゃあ木戸はっ? 京橋の番太郎は」
伝左衛門は血の気が失せた顔を左右に振った。
「わたしが入った後すぐ、日本橋から拍子木が火事拍子で鳴らされて、文爺さんも異常を察して木戸を閉めていたよ」
木戸は急患なら開けてもらえるが、問題は北京橋を迂回できないことだった。
今から日本橋浜町の天真楼を目指すなら、日本橋。京橋の南北を繋ぐ橋は大路橋の京橋だけ。他の比丘尼橋、中ノ橋、白魚橋が去年の洪水で流され、東へ迂回する真福寺橋は残りこそしたが、その先の中ノ橋も流されていた。
不運と不運が重なって身動きが取れない。
でも嘆いている暇はない。何はなくとも、よねの命だ。
「伝蔵」父が長男を血走った眼で見つめる。「なんとか、築地(桂川)にすがれないか」
伝蔵は耳を疑った。
「親父殿、落ち着いてください。築地は町医者ではありませんよっ」
子を思う親の窮迫を誰が責められよう。すがれるものなら藁にでもすがる。それでも頼む相手が悪すぎる。桂川は将軍奥医師だ。
万蔵さんならあるいは……いや、だめだ。
「医者は医者だろう。伝蔵、山東京伝のツテでなんとか。一刻を争うんだっ」
ドォオーン……、ドォオーン……。
北から花火めいた轟音と歓声が聞こえてくる。米問屋への打ちこわしが始まったようだ。
「これから私が天真楼まで走り、薬をもらって参りますっ」
「伝蔵、あの群集の中に突っこむのか。それは……っ」父の表情が怯んだ。
「大事な妹の命、無茶のし甲斐があります。この身一つなら野次馬に紛れこんでやり過ごせますよ」
父の行き場のない焦燥を宥めて、伝蔵は決然と立ちあがった。
その時、裾を掴まれた。よねだ。脂汗のにじむ苦痛顔を左右にふる。
「兄上。よねも連れていきましょう」百樹が提案する。「戸板に布団を敷いて、皆でよねを天真楼まで運ぶんですっ」
「よねまで、打ちこわしの最中の万町へ飛び込ませるのはダメです!?」
母大森も恐怖に顔色を変えた。相手は破壊を目的とした暴徒だ。
「父上。母上。わたし達は急患を運ぶんです。彼らを止めるつもりもないし、道を開けてほしいと頼めばきっと開けてもらえます。それが江戸っ子でしょう?」
二男の根拠のない確信に両親は顔を見合わせたが、伝蔵が弟の肩を叩いて立ち上がった。
「戸板は雨戸を外して、よねを庭から出そう。母上、後からよねの小袖を持っておっつけてください」
集まった群衆は万町だけを取り囲んでいた。
大通りに人気は失せており、軒を連ねる他の商家は店前の揚戸をおろして臨時休業していた。
彼らは万屋作兵衛の揚戸に大八車を何度も突っ込ませてこじり入れると、店内に雪崩れこむ。
ややもして、主人家族使用人全員を店の外へ連れ出すと家内の火の始末をしてから、
パキーンパキーンパキーン……パキーンパキーンパキーン!
「壊し方、はじめーっ」
拍子木を打って、一斉突撃を命じた。
木づちで漆喰壁や障子を打ち破り、鳶口や鋤、鍬で天井板や畳を引き剥がす。梁や柱は壊さない。折ってしまえば屋根が瓦とともに落ちてくるからだ。
箪笥や長持、行李が店の外に運び出されると路上に帯や小紋を投げ捨てた。そこへ別の男たちが味噌や醤油、酒樽を運び出し、その上にぶちまけた。
「どいてどいてっ、どいてくれ! 病人が通るよーっ!」
百樹の声で、打ちこわし作業が一瞬止まる。
「待て! ここは通るな。あっち行ってろ」
六尺(一八〇センチ)はあろうかという筋骨たくましい男が伝蔵の前に立ちはだかった。
「急病人なんだ。日本橋浜町の天真楼に運びたい。ここを通してくれっ!」
「ここはダメだぁ。他の道を通れ!」上州(上野国)訛りだ。
「そこの、すぐ先の日本橋を渡った浜町なんだ」
「ダメなもんはダメだぁ! 他の道を行け、このぉ」
「一刻を争うんだっ、妹の命が危ないんだっ。お前こそ、そこをどけっ、どけぇえ!」
両手で戸板を支えたまま、伝蔵が頭で男の胸を突いて押した。相撲でいう、向こうづけだ。
大男は一瞬ひるんだが、押し付けてくる頭を横へ払おうと張り手を振り引いた時だった。
「よさねえか、イセジっ」
町人髷に灰汁染めの着物の優男、首から拍子木を下げて現れた。棒手振りっぽく尻端折っていた。
だが、画師・北尾政演の目から見て、立ち姿から武士だと思った。
「つまらんことで地元町人と揉めてんじゃねえ。行かせてやれ。――おい、お前ら。そこの道を開けてやんな。病人が通るぜ」
頭上で拍子木を交差させて打つ。カン、カンと雑に鳴らせば、人垣が割れて道が現れた。
「ありがとうよ。けど、恩には着ねえからな」
「うるせぇな。さっさと行け。こっちは仕置きする米屋はここだけじゃねえんだからよ」
伝蔵と優男はお互い眼光を飛ばしあったが、すぐにすれ違った。
日本橋浜町にある医塾・天真楼。
「見てるそばから、どんどん家が骨だけになってました。恐いというより凄まじかったですね」
容態が落ち着いた妹に付き添っている両親を遠巻きに眺め、百樹がさっきの出来事を思い返す。
「百樹。あの拍子木だ。三打三連」
「三打三連? あ、火事の鐘打ち?」
京橋木戸番のとった対応は真っ当だが、一般通行はできなくなる。その職業反射を利用したのだとしたら町の防犯を逆手にとられた形だ。
「文吾爺さんも親父殿も、拍子木の三打三連を聞いて、とっさにあの連中が火付けしていると誤認して震えあがったんだ。でも実際は逆。火事を起こさないよう拍子木で手配りして米問屋を破壊していた」
「でもそれって、あの兄さんが考えたんでしょうか。まるでお武家の発想ですけど」
「そうだな。町人の発想にしては統制が取れすぎていた」
拍子木で統制を取っていたのなら鳶口といい、手早い家屋破壊から町火消しがあの打ちこわしに絡んでいると見てよかった。
民衆の怒りを名目にしている割には、お行儀が良すぎて、伝蔵には薄気味悪かった。




