第十九話 『すかほ』前
〽水無月の 流れは絶えず 浮き世に──
天明六年。十月。
吉原中之町通り千本桜にある茶屋長崎屋で、伝蔵が作詞した長唄めりやす『素顔』の披露があった。
伝蔵が伴奏を担当し、節付けと唄は荻江節の荻江(長谷川)泰琳が担当した。
催主は、戯名笹葉鈴成(文京)。号は香蝶。本姓は石高三千石の大身旗本で松前藩公子、養子後は岡山藩公子・池田頼完である。公子の傍には松葉屋方花魁・七代瀬川。二人は酒を酌むでなく肩を寄せ合って、しんみりと目を閉じて長唄めりやすの唄と三味線が弾く音色に耳を傾けていた。
この年、時世の箍が外れたように、多くの人が災害を被った。
七月十二日から十八日にかけて七日間大雨が降り、この影響で関東一円が大洪水にみまわれた。
利根川、荒川、多摩川の江戸三大河川とその支流である中小河川が軒並み溢れ出したことで江戸全域各所が浸水、六月初旬からすでに雨が降る日が多かったことに加え、この七日間の大雨で江戸市中が限界水域を超えた。
本所石原では一階軒下まで水に浸かり、深川元町では二階の床上まで水が押し寄せた。
また小石川、下谷、番町(麹町)のような高地でも家屋床上まで到達、土塀や石壁などが崩壊した。
橋は大川五大橋のうち永代橋、新大橋が流失、両国橋と大川橋、千住大橋が辛うじて残ったが渡河禁止となった。
またこの水害は地方においても被害を及ぼし、北は宮城県、新潟県、南は神奈川県、千葉県、西は岐阜県や三重県にまでおよび、死者は全国で約三万人と推定された。
「と、いうわけで、ご厄介になる」
「いきなり現れて、何がというわけなのか意味がわからねーよ。コノヤロウ」
突然、岩瀬家にずぶ濡れで庭に現れた滝澤左七郎を、百樹が喧嘩腰で睨みあげた。
「左七郎どの。ご家族はいかがなされましたか」
伝蔵が訊ねると、滝沢左七郎は急におどおどし始めて、
「母は先月に病で、次兄がこの水難でみまかった由。長兄家族と妹たちは主人宅の戸田屋敷に避難できたはずです」
家族想いにかけては伝蔵にも引けをとらない百樹が顔を紅潮させて激高した。
「馬鹿かっ、てめーの家族だろ。ちゃんと確めてこいよっ、何やってんだよ!」
「百樹、言い分はもっともだが、落ち着け。──左七郎さん、うちも浸水を被って畳や襖も剥いで、納屋は泥鰌や蛙が避難所にしてる有り様です。それでもかまいませんか」
「水が引けば家族の元へ戻る所存。あと、それがしに敬語は不用。恥ずかしながら、浮浪の身ゆえ」
「わかりました。おあがりください」
「兄上ぇ!?」百樹が眉をハの字にして遺憾の意を示す。
「困ったときはお互い様だ。第一、この大水じゃ深川へは帰りようもない。左七郎どの、早速ですが百樹と家の留守を頼みたいのです」
「心得た。あと敬語は不用。むしろ呼び捨てていただきたい」
「兄上、どちらへお出かけに?」百樹が不安そうに訊ねる。
「吉川町だ。父上は猫の手でも借りたいと思ってるはずだ。百樹、町はご覧の有り様だ、左七郎どのと協力して、母上とよねを頼むぞ。喧嘩はナシだからな」
「ちっ……わかりましたよっ」
伝蔵は合羽をまとうと、母大森とよねに目顔で頷き、笠をかぶって家を飛び出した。
両国広小路までいくと、宝合会をした両国柳橋河内屋はそこになかった。強風の中、乱立した掘っ立て小屋が寒そうに震えている。
見世物小屋は被災した中州の住民たちが筵壁の中で不安そうに身を寄せ合っていた。
ここもいつ浸水するかわからない。避難民をいつまでも留まらせることは危険なのではないか。
自身番では町火消しの頭。大工の棟梁数人が笠蓑姿で集まっていた。
伝蔵が顔を出すと、父伝左衛門は少し困った顔をした。
「家は」
「滝澤左七郎という百樹の学友が避難を求めて参りましたので、用心棒にしてここへ来ました」
「今、曲淵様のご差配で、水難者を船奉行の御用船や近海漁船などの波に強い船を使い救助を始めるところだ。彼らをここ一帯の四つの町に三百人ずつ受け入れることになる」
「三百、ということは京橋だけで一二〇〇人ですかっ!?」
後世の被災記録では、船による水難救助総数は五一一二人にのぼったとされる。また救助に使用した船の数は寛保二年の大洪水やその後の弘化三年の大洪水の五分の一、わずか二百余艘だった。にもかかわらず効率的な人命救助がなされたのは、町衆の団結と行政の指揮統制によって迅速で適切な対応だったことが記録からも推測できた。
その指揮者は、町奉行・曲淵景漸といった。
曲淵景漸は、明和六年(一七六九年)に就任以来、十八年にわたって奉行職を務めた名奉行である。またこの「お奉行様」は、明和八年三月に、
『明日、小塚原で刑死人の腑分けをするから、見分したければ来ていいよ』
という消極的な通知を江戸医師らに出した。この通達を受けて、杉田玄白と前野良沢、中川淳庵らは刑死人の内臓配置を実見、蘭方医学書『ターヘル・アナトミア』の解剖図と比較したことで日本医学の遅れを痛感する。その契機を与えた法政官でもある。
もっとも、曲淵が先進的思考の持ち主だったからではなく、それ以前から蘭方医たちがくどいほど刑死体の実見を請願し、前任奉行が蹴り続けた案件を曲淵も二年ほど蹴り続け、ついに根負けしたというのが実情のようだ。その実見通知も、請願し続けた医者だけに限定したようである。
また曲淵は、小塚原の刑場が極秘裏に将軍の刀剣の様し斬りを行う特殊事情が、死体の事後処理に関する町奉行の裁量判断に、老中や大目付、評定所などからも異論を差し挿めない行政の死角だった可能性が大きい。
曲淵景漸は就任三年目で医師たちの情熱を後援したことは、彼が徹頭徹尾、現場主義者だったからだろう。
「親父殿、何かやることはありますか」
「伝蔵。お前はそんなことを言うために、この嵐の中をやって来たのか」
父親に静かに叱られ、伝蔵は鞭打たれたように背筋をまっすぐにした。
「申し訳ございません。なんでもお申し付けください。なんでもやらせていただきます」
伝左衛門は厳しい目であごを引いた。
「これから避難住民がどんどんやってくる。避難場所を大川から離し、もっと山の手に作らなければならない。お前は家主連の名代として町年寄にかけ合って、避難できそうな寺社や空き家がないか地図をもらってきてくれ。筆と紙の扱いなら得意だろう」
父に最後茶化されて、男たちがどっと笑う。ここでは人気戯作者もただの若造扱いだったが、伝蔵には上との連絡役を任されたことが嬉しかったし、緊張した。
伝左衛門は、武士のように背筋を正し、屈強な江戸の男たちを見回した。
「各々方、家や家族を失った者たちはみな着の身着のまま、命からがらに生き延び、身も心も疲れ切っておりましょう。我々はただの親切で人助けをするんじゃありません。家を町ごと失った江戸の仲間を助けるために動くんです。気を引き締めて参りましょう」
おうっ。かけ声とともに男たちが次々と自身番を飛び出していく。
二十も半ばを過ぎた伝蔵の眼には、父の横顔がとても〝粋〟に映った。
この大洪水を乗り越えてひと息ついた矢先、次の大きな死が流れてきた。
十代将軍・徳川家治の逝去。享年五十歳。
天明六年(一七八六年)八月二五日のことだった。
死因は、脚気衝心(脚気による心不全)と推定されている。
高貴人の死は一ヶ月ほど秘匿されるのが通例であったため、葬儀は九月八日、公表は十月過ぎとなった。
その間に田沼意次が老中職から失脚した。
罷免理由が、奥医師法眼・桂川甫周が物忌みを被ったことで、替わりに招集した医師・日向陶庵と若林敬順が処方した薬を服用直後に、家治が脚気衝心で苦しみだした。
このために田沼が毒を盛らせたのではないかとの噂が流れた。
嘱望していた嫡男意知を殿中で刺殺された心傷も癒えぬ間に、今また信任厚恩ある家治を失い、あまつさえその死に濡れ衣をかけられては、田沼意次も気骨気概が折れてしまったのだろう。根も葉もない嫌疑の詮議に抵抗を見せず蟄居処分を甘んじて受けたという。
ただ、老中首座は天明元年からずっと松平康福であった。
康福が田沼失脚後も反田沼派の攻勢に抵抗を示し、それは天明七年に家治の養嗣子・徳川家斉が十五歳で十一代将軍に就任し、翌天明八年四月二日に松平定信が老中から老中首座に着くまで続いたとされる。康福はその翌年寛政元年に死去。七十歳であった。
こうして田沼政権と呼ばれた一つの政権体制が一掃されて、新たな政権が発足するが、前政権からその特殊な能力を買われて、留任された者もいる。
御側御用取次・小笠原信喜。
職務は享保年間に定められ、将軍の居所である中奥の総裁、将軍と老中以下の諸役人との取次役、将軍の政策・人事両面の相談役、将軍の情報源である目安箱の取り扱い、そして御庭番の管理などである。
小笠原信喜は脇息にもたれかけ、一冊の黄表紙を眺めていた。
親指だけで頁をめくっていく目運びは、およそ七十を目前にした老齢の速度ではなかった。
やがて冊子を閉じると、小さなあくびをして脇息の外へほうり捨てた。
『江戸生艶気樺焼』
「一応、使えるか……ねえ、この山東京伝って戯作者のこと、調べておいてくれる?」
「畏まりました」




