第二十話 『すかほ』後
〽恋の噂のはじめとて くしゃみし終えて
まじないを唱える癖の やるせなさ
天明六年十月に戻る。
「来年。この七代瀬川を(身)請けることにした」
演奏後の拍手がおさまってから、笹葉鈴成が穏やかにいった。
「おめでとうございまするっ」
まっ先に森島万蔵が低頭すれば、臨席した狂歌三大家をはじめ、文人客たちからも一斉に言祝ぎが唱和された。
笹葉鈴成は浅黒い肌に骨太のあごを緩めてニカリと微笑み、うなずいた。
戯作中、鈴成の肖像は色白の恰幅のいい人物として描かれるのが常だった。本人の希望だ。
笹葉だけに限らず、狂歌師には武士や大商家の旦那、御内儀もいる。
伝蔵は彼らを描くときは必ず扇子や頭巾で顔を匿すか確認をとった。
活動内容は下世話で不埒な風刺、素性が特定されると実生活で面目を潰しかねなかった。
家族や職場から解雇、離縁、義絶に繋がり、死ぬより辛いことになる場合がある。
狂歌師一人一人にいろんな事情があるのは当然だし、そもそも狂歌は性別、身分、職業をとわない自由な世界、誰が参加しても門は常に開けっぱなし。笑いが取れれば一目置かれて、小洒落ていれば狂歌師の株まで上がる。そんな交流を欲するのは武士も町人も同じだった。
笹葉鈴成は穏やかに続けた。
「予の吉原通いはこれで仕舞いとなるが、狂歌はこれからも続けていく。皆には、こちらが声をかけてもわざと聞き流さず、会が催される折には声をかけてくれることを願うぞ」
最後の言葉に宴が笑いと拍手に包まれた。
そこで伝蔵が機転を利かせて三味線を構える。
祝い長唄『雛鶴三番叟』の弦を弾き出すと、となりの荻江師匠も心得た様子で老練な喉を披露する。
笹葉鈴成は少し驚いてから、七代瀬川と睦まじく微笑みあった。
愛人の酌を受けて、大盃へ浪々と注ぐと一息に飲み干してみせるのだった。
「さすが兄上、大身旗本にも顔が売れてるんですね!」
「ああ、伝蔵さん。ちょうどよかった」
長唄神曲披露が終わって興奮する百樹と一緒に長崎屋を出ると、文使いがやって来た。
文使いは、遊女から客への手紙を吉原の外へ運ぶ業者だ。当然、預かる文は一つや二つではないので、伝蔵が小遣いを渡すと無愛想にさっさと駆けだしていった。
伝蔵は手紙にさっと目を通し、覗こうとする弟に渡して江戸町一丁目へ足を向けた。
幸い、笹葉鈴成からご祝儀を弾んでもらったし、今日なら扇屋の敷居は低かった。
先方の用件は「会いたい」とだけ、たぶん正月に刊行された洒落本『客衆肝照子』のことだろう。吉原の遊女や遊郭に現れる人々の身振りや話し方の特徴を、絵と文で細かに描写した吉原案内となっている。
今夏は洪水で浅草吉原界隈もやられて客足も鈍り、遠のいた客を呼び戻すための一策として戯作で盛り上げようという企画だ。
重三郎いわく、
「商売の〝よ〟の字も知らねえ武士が、町人にまで武士の礼儀作法を押しつけてきそうな風潮がある。誰が次の老中になるかなんざ知らねえが、今や江戸の外は地獄で、上様のお膝元まで窮屈な世の中にしちまったら、お先真っ暗ってもんだろう?」
政治の重責を担ってきた田沼意次が蟄居、所領没収という不可解な憂き目に遭ってから世の中が妙な方向へ傾きつつある。
公儀は変革の象徴として吉原を槍玉にあげるのではないかと重三郎は読んでいて、規制への反骨が日増しに強くなり始めている。
地本問屋だけでなく、伝蔵ら戯作者にとっても吉原は浮世に遊ぶ場で飯の種だ。その予防線として吉原を後援する洒落本を頼まれた。売れ行きもまずまずだそうだ。
『客衆肝照子』は、題名と様式は明和八年(一七七一年)に刊行された勝川春章(葛飾北斎の師)の『役者身振氷面鏡』のもじり(パロディ)だ。歌舞伎役者を吉原遊郭衆に造り変え、その遊女のモデルに菊園を起用した。
伝蔵の希望ではなく、扇屋の女将稲城が「ちょうど今、売れ筋があいたから」と勧めて、出てきたのが菊園だった。なんだ馴染みじゃねぇかと拍子抜けしたのは顔にも口にも出していない。
あとで『吉原再見』を確認したら扇屋二九番目に着けていた。扇屋は七十人から遊女を抱える大店で、遅くればせに巻き返して中堅の上である。
手紙が書けるようになってから随分頑張ったんだな、と伝蔵も感慨深い。
「あの、兄上。この手紙」
百樹が菊園の手紙を見ながら小首を傾げる。
「手紙の手が汚いというのはナシだぞ」
「いえ、そういうことではなく、なんか字体が兄上の筆癖に似てませんか?」
こいつ。伝蔵もとっさに言葉に詰まる。
「私が一晩かけて教えたんだよ。躰や肩も抱かずにだぞ? あとそれを母上に告げ口してみろ、破門だからな」
「自分から白状しておいて理不尽すぎませんか。つまり兄上も菊園さんにまんざらではないってことですよねえ?」
やに下がる弟の剃りあげた青額をペチンとはたく。
「あのな。遊女に惚れられても、私に身請けする甲斐性なんかないんだよ。第一、うちの母上が遊女なんて家に揚げるわけないだろっ」
百樹は額をさすりながら、笑みを止めない。
「それは、まあ……でも母上に直接伺ってみれば良いのではないですか」
「伺うまでもないよ。本当に、身請けする金もないんだ」
「先立つものがなければ、吉原では恋もできないんですか?」
「それは違う。ここではどんな恋路を渡ろうと、女の方に金のシガラミがついて回る。それをどうこうできるのは男の器量にかかってる。それが吉原の……業だな」
「業ですか」
「たとえば、葛の葉が釈迦如来の腕に書かれた梵字をお灸で焼き消そうとしたとき、薫香を浴びて玉藻の前の正体がばれただろ?」
あっ。百樹は軽く目を見開いた。自分の戯作『両国信田染』だ、気づかないはずがない。
「お前は私や他の戯作を読んで、なんとなく面白可笑しく描いたつもりだろうが、実際に的を射てる。生身の遊女が相手の素性を知り、自分が真っ当に生きてきた女ではない、女狐だと思い知らされる。だから葛の葉は惚れた釈迦如来の前から逃げたのさ。どんな姿でも構わない、それでもこの女が欲しいと覚悟をした男だけが、女に金を積むんだ」
「それが吉原ですか」
伝蔵は鼻から息を吸い、吐きだした。諦念を覚られないように。
「でも兄上。昨年は艶二郎が、大当たりだったのですよね?」
伝蔵は鼻で笑い飛ばした。
「『江戸生艶気樺焼』でもらったのは、二両だよ」
「は?」
「どんなに売れても所詮、黄表紙だ。一冊十二文のな。全三巻三六文で売られている。それが五千冊売れたとして。四五両。紙代やら板木代やら、彫り子刷り子の手間賃もさっ引いて、私の所に来たのはそれだけだ。何度販売されても、私には一文も入ってこない」
一冊単価が安いのに板元の儲けを考えれば、戯作者に金など回ってこようはずもない。
「五千も売れたのに……それなら兄上はどうやって家にお金を入れていたんですか」
「蔦屋重三郎に生活の費えをせびってた。十両二十両ってな。それだって蔦屋が私の戯作がまだ売れるのを知ってるからだ。売れなくなったら、会ってもくれなくなるかもな」
「そっ、そんなっ!?」
「戯作者の正体なんて幇間と対して変わらないんだよ。だから私は……重三郎や喜右衛門に飼われてる、字と絵が描けるだけの犬なのかもな」
百樹は押し黙ったが、それでも進む歩を止めない。
先を歩く伝蔵の後ろをしっかりとついてきてくるのだった。




