第五話
綾音が放り込まれたのは半地下のガラクタ倉庫で、ドアを閉められた途端、すべてが真っ暗になった。
すぐに寒さが襲ってきた。壁も天井も床もコンクリートで、その冷たさが直に伝わってくるのだ。綾音は、ドアを入ってすぐの床に置いてあった懐中電灯を、とにかく照らしてみた。
広さは、六畳ほどはありそうだった。しかし、奥から手前に向かって、掃除道具だの修繕道具だの体育用品の類が秩序なく重ね置かれていて、実際の居住空間はその半分もない。天井も、並の身長の綾音が常にちょっと腰を屈めていなければならないほど低く、窮屈なこと、この上なかった。
なにはともあれ綾音は、寒さを凌ぐに何か役立つ物はないかと、ガラクタの山を漁ってみた。すると、いつの物とも誰の物とも知れない体操着やジャージのボロ着の類が何着か出てきた。汚いだの臭いだのと言う余裕もなく、綾音はそれらの着物を重ねて着込んだ。
どれほどの時間が経ったのか、そこから綾音が取り調べの為に引き出された時、窓の外の世界も既に真っ暗だった。彼女は再び三階まで連れていかれ、所長室の対面の部屋の前に立たされた。ドアの上のプレートには、所長宿直室と書かれている。ノックに応じて、雪乃が自ら顔を出し、綾音のみを中に入れた。
部屋の様子を見て、綾音はちょっと驚いた。ここだけリフォームでもされたのか、ちょっとしたホテルの居室のように、小綺麗で整っているのだ。トイレがあり、洗面所があり、風呂がある。壁紙は新しく、床には絨毯が敷かれ、厚いマットレスを載せたセミダブルのベッドが部屋の三分の一ほどを占めて、据えられている。他に、石油ファンヒーターが壁際で稼働していて、それは、どんなに着重ねても完全には防ぎきれない半地下の寒さにさっきまで震えていた綾音の目を、何よりも強く惹いた。
「ひどい格好してるな。ここでは、いくら何でも暑いだろ。脱いだらどうだ」雪乃が、着ぶくれした綾音を笑った。
確かにこの部屋は暖かすぎて、早くも綾音の額には汗が滲んでいた。雪乃自身はティーシャツに短パンを穿いて、夏の風呂上りのような格好をしている。綾音は雪乃のすすめに従って、上四枚、下二枚を重ねたジャージを全て脱ぎ、体操着だけの姿になった。ちなみに、この体操着は、現行の物とは違う型の物で――
「これはまた、珍しい物を穿いているな。ブルマじゃないか、それ。いまだにそんな物が残っていたとは」
「……独房は寒いんです。こんな物でも無いよりマシ。どうです、珍妙でしょ。笑いたければ、どうぞお好きに」
「……いや、悪くない。少なくともお前には、よく似合っている。うん……」雪乃が妙にしみじみとうなずきながら言った。
その時、だしぬけに、綾音の腹がグゥと鳴った。思えば、昨日の夕食を最後に何も食べていない。今朝ここを釈放されたらすぐに学食へ向かうつもりで、既に飽き飽きしているここの決まりの朝食のコッペパンとゆで卵は、例の二人の先輩に上げてしまったのだ。綾音は赤面しつつ、そのことを後悔した。
雪乃がまた笑いながら、入口側の壁まで歩いていって、そこに付けられた簡素なボタンを押した。ほどなく、ドアをノックする音がして、さっき綾音をここまで連れてきたのと同じ刑務官が用を聞きに来た。
やがて、湯気の上がる食事が運ばれてきた。コロッケとシチューとハンバーグとチャーハンが広い盆の上に載っている。たぶんそれらはどれも、電子レンジで温めただけの冷凍食品の類だろうが、飢えた今の綾音にとっては、そんなものどもでももちろん、夢のようなごちそうであった。
「遠慮しないでいい。さあ、食べろ」
ベッドの縁に座らされた綾音は、サイドテーブルの上に置かれたそれらの料理を、次々と平らげていった。不自然に優しい雪乃の態度を怪しみながらも、猛烈な食欲は止められない。こんなに美味いものが世の中にあったのかと、綾音は日本の冷凍食品業者の技術力に心の中で賛辞を送りつつ、非常な満足をもって食事を終えた。
「これで腹も膨れたろ。それじゃ、取り調べに掛かるか。さて、何から訊こうか」雪乃が綾音の隣に腰を下ろした。
「私が何を言ったところで、どうせ信じてもらえないことはわかってます。何でも好きに書いたらいいじゃないですか」綾音が、夕飯を貰ったぐらいで気を許してはいけないと自分に言い聞かせつつ、言った。
「そんなことはしない。私たちは真実を尊ぶ。公正な裁きを実現する為には、それが何より重要だと知ってるからだ。何があったか知らないが、お前は私たちを誤解している。私たちほど不正を憎む人間は居ないと、認識を改めるべきだ。ただ……」
「ただ、何ですか?」
「ただ、私たちも人間だ。容疑者の態度次第によって、白黒の印象に影響が出てしまうことも絶対に無いとは……」
雪乃の手が伸びてきて、適度に丸みを帯びた綾音の太ももを撫でた。綾音は思わずびくりとして、反射的に立ち上がった。腰がサイドテーブルにぶつかって、あわや、空の食器が落ちかけた。
「私に何する気ですか!」
「知れたこと。野暮なことを聞くな」
「人を呼びますよ」
「無駄だ。お前がどんなに叫んだところで誰も来ない。しかし、勘違いするな。私はお前に何も強要しない。嫌なら、このまま帰ってもらっても構わない」
「……」
「ただ、もし私の意に応えてくれるならば、当然、お前に対する今後の待遇は、目に見えて良くなるだろうな」
「……どうなるんですか?」
「釈放の日までずっと、暖かいこの部屋に住まわせてやる。刑期自体、相場より短めにしてやろう。昼は散歩の自由を認める。飯は、いま食ったようなものを毎日食わせる。シャワーも毎日使わせてやる。読みたい本があれば、何でも取り寄せてやろう。お前の義務は、夜は必ずここに居て、私の好きに肉体を任せること。それだけだ」
「……断ったら?」
「別にどうもしない。独房に戻して、そこで最後まで刑期を務め上げてもらうばかりだ。さあ、どうする? 好きに選べ」
実は綾音にも、同性愛の気が全くないではない。実際、寮の同室だった一人と相愛の関係にあり、隠れてこっそりキスしたり抱き合ったりと、そのぐらいなことは割と頻繁にしていた。
しかし、それ以上のこととなると綾音には完全に未知の世界で、他人の好きに肉体を任せるなどということは流石に恐ろしい。あまつさえ、その相手が憎き生徒会の幹部とあらば、いくら美人といえど、どうしても嫌悪感が勝ってしまう。
綾音は雪乃の目をしっかりと見据えて、はっきりと告げた。
「お断りです。私は売女じゃない。独房に戻ります」
半地下のガラクタ倉庫に帰った綾音は、すぐに寝床作りに取り掛かった。体育マットを冷たい床に敷き、バレーのネットやテントの布を掛け布団にする。
中に潜ると、少しは温かかった。しかし、熟睡できるほどには、ぬくまらない。
深夜にトイレに起きて、ドアを叩いた。が、誰も来ず、やむなく、バケツに済ます。
刑務官が朝食を持ってきた時、綾音は身も世もなく泣きついた。こんな所に居たら死んでしまう、せめて尋常な布団を用意してくれ。しかし、刑務官は大袈裟な奴だと笑うだけで、まるで取り合ってくれなかった。
起きているあいだ中、昨晩食した冷凍食品のごちそうのことばかり思い出していた。半袖短パンで過ごせるほどに暖かかったあの部屋が、情けなくも今や恋しい。漢文の授業で習った桃源郷とは、あの部屋のことではないのか。
四日目の朝、綾音はとうとう音を上げた。所長の要求に従うことを約束して、取り次がせた。
綾音が釈放されたのは、それからおよそ一月後のことだった。その間、雪乃は綾音に保証したとおりの待遇を与え、一方、夜にはその肉体を思いのままにもてあそんだ。




