第二十六話
昨晩よく寝られなかった疲れから、綾音は夕食後すぐに寝に就いた。目を覚ましたのは丑三つ時で、彼女はベッドに横たわったまま目を開けて、暗い天井を見ていた。
その時、外の廊下の古い床板がギシリと軋む音を、綾音は聞いた気がした。耳を澄ますと、さらに軋みが聞こえて、しかもそれは連続し、段々と近づいてくる。
この時間この建物のこの階(収容所三階)に、まともな用でもって来る人間がいるとは思えない。あるいは、入江が自分を害する為に送ってきた刺客ではないか。綾音は武器代わりに机からボールペンを取って、芯を出して握り、ドアに耳を近づけた。
果たして軋みは、生徒会各部の全ての部屋を素通りし、綾音の部屋の前まで来て止まった。音の感じからして、相手はどうやら一人らしい。綾音は咄嗟に、待って迎え撃つより、こちらから出て不意を打ってやろう、と心を決めた。
いきなりドアを開け、相手の影に組みついた。影は悲鳴を上げつつ易々と倒れ、綾音はその上にすかさず馬乗りになった。ボールペンを頭上に振り上げ、誰何した。返ってきた答えに、綾音は慌て驚き、肝を冷やした。
「私よ、邑子、広幡邑子。わかったら、とっとと退きなさい」
「えっ! か、会長!?」
おととい以来、邑子は公邸二階の自室にずっと閉じ込められていたらしい。それを今、部屋の窓から脱け、樋を伝い下り、フェンスを乗り越え、ここまで逃げてきたと言う。綾音は謝罪の言葉を口にしつつ部屋の灯りを点け、とにかく彼女を中に入れた。
「今日からこの階の全フロアを生徒会長公邸とするから、そのつもりで朝までに手配して」邑子がベッドに無造作に腰を下ろして言った。
「もしかして、ここに立て籠って、奴ら――私以外の三人の常務委員たちと対峙する気ですか?」綾音が片膝を床に突き、邑子を見上げて言った。
「そうよ。方法はあなたに任せるから、とにかく、あいつらとその手下どもが、ここまで上がって来られないようにして」
「……わかりました。これより取り掛かります。それにしても、忌々しいですね。あんな奴らに元の公邸を明け渡す形になってしまって」
「そうね。でもまあ、いいわよ。どうせじき自分たちから、あの家を出ていくことになるでしょうから」
「ん、どういうことですか?」
「これよ」
邑子はジャージの襟ぐりから、ネックストラップに付いた小さな袋を引っぱり出した。中に入っていたのは変哲もないハンコで、それは綾音にもしばしば見覚えのある物だった。
「会長が書類に押すのに、いつも使ってるやつですよね。それが一体?」
「これ実は、ただの認めの三文判じゃないの。学校側にその印影がきちんと登録されている生徒会公式の代表印なの」
「……つまり、学校側に対して何か申請する時には、それが何であれ、そのハンコが必ず要ると」
「そう。そしてその中にはもちろん、各種施設の運営経費の支払い申請も含まれているというわけ」
「施設の運営経費……あまりピンと来ないですね。例えば、どんな?」
「色々あるけど、最も大きいのはやっぱり、二つの生徒寮の電気ガス水道代に食費よね」
「あ、なるほど、そういう――となると、もしかして、生徒会長公邸も?」
「そう。まあ、光熱費の支払いがちょっと遅れたところで、すぐにそれらが止められるということもないんでしょうけど、体面の問題として、ちょっとみっともないわよね」
「でも、家一軒の光熱費なんて高が知れてますよね。自分たちのポケットマネーから賄えないこともないのでは?」
「公邸の光熱費は二つの寮の経費と一緒に払ってるから、公邸の分だけ分けて支払うなんて出来ないわ」
「なるほど。ちなみに、この収容所の光熱費は?」
「学校側の支払い。ここは元々校舎で今も名目上は学校の持ち物であるのを、私たち生徒会が勝手に使ってるだけだから。とにかくそういうわけで、いずれ彼女らは、私に頭を下げに来ざるをえなくなる。公邸に戻って、溜まってる書類に片端から代表印を押してくださいと」
「そんな素直な奴らですかね? あいつらが必要とするのは、失礼ながら会長でなしに、あくまでその代表印でしょ。であれば、頭を下げるどころか、力ずくでそれを奪いに来るんじゃ」
「そうね。だから最初に言ったように、ここの守りを十全にして」
また降り出した雨の中、綾音はそぼ濡れながら、収容所と本校舎のあいだの真っ暗な道を何度も往復した。一往復する度に、収容所三階の階段降り口そばの壁際に消火器が一本ずつ増えてゆき、それは朝までに七本に達した。やがて、白川憲兵隊長が誰よりも早く出勤してきて、綾音は彼女に昨夜来の事情を伝え、階段降り口に二十四時間体制で適当な数の番兵を置くことを命じた。
「警告を無視して押し通ろうとする者が居た場合、本当に消火器を噴きつけても構いませんね?」
「警告は不要よ。入江の一味の者と見たら、問答無用で噴射して」
それから綾音は所長室にちょっと戻って、本校舎の消火器の補充を頼む申請書を書いた。そして、邑子にハンコを貰うため、対面の宿直室に戻ると、彼女はベッドで腹にだけ布団を掛けて、人の苦労も知らなそうにぐっすりと眠っていた。
無防備に晒された邑子の素晴らしいスタイルの肢体に、綾音は目を奪われた。ちょっと触ってもわからないだろうと手を伸ばしかけた時、朝礼の開始を知らせに来た白川憲兵隊長がドアをノックする音がして、彼女は我に返った。




