第二話
三学期が始まったばかりの頃で、取調室は冷え込んでいた。そろそろ夜明けの時間だが、窓のないこの部屋に陽は入らない。灯りは、天井から垂れた裸電球が一つあるきりで、その薄ぼけた光の下に、均整の取れた美しい肢体を白く晒して、下着姿の綾音が立っていた。
「いい加減、吐いたらどうだ。そうすれば、すぐに暖房のある部屋に連れてってやるぞ」ダウンジャケットを着て、制服のスカートの下にジャージを穿いた取調官が、陰湿な笑みを浮かべながら言った。
「何度訊かれても同じことです。知らないものは知りません」唇を青くした綾音が、ぶるぶると身体を震わせながら言った。
「知らないはずはなかろう。この紙片、お前の持ち物から出てきたそうじゃないか」
「だから、知りませんってば」
取調官が、いま摘まみ上げてヒラヒラさせているその紙片には、理事長の娘である今の生徒会長が選挙も無くその任に選ばれたことや、その自治の横暴過ぎることに対する批難が書かれていた。おそらく、不特定多数に訴えるためのビラの類であるのだろうが、その内容が何であれ、どうしてそんな物が自分の枕の中に入っていたのか綾音にはわからない。彼女はただ正直に、知らないものは知らないと答え続けた。
「生徒会の許可なく、ビラを配ること。また、そのビラを受け取ることが禁止されているのは知ってるな」
「はい」
「知っていながら通報せず、あまつさえ、それを隠して保管していたのは、一体なにを考えてのことだ?」
「だから本当に私は何も知らないんですってば」
「言え。このビラ、誰に貰った?」
「誰からも貰ってないです。きっと、誰かが勝手に入れたんです。何度言えば、わかってもらえるんですか?」
同じやりとりが繰り返され、時間が無駄に過ぎていった。部屋には時計も無く、確かにはわからないが、そろそろ一時間目の始まる頃ではないだろうか。
綾音の身体はいよいよ冷え切り、さっきから我慢していた尿意も、今や限界に近づいている。彼女がそのことを取調官に訴えると、取調官は意外や素直にそれを許してくれた。
「では、ちょっと失礼して」綾音はくるりと背中を見せて、ドアの方へと踏み出した。
「こら待て、どこへ行く?」たちまち取調官が咎めるように言った。
「どこって、もちろんトイレに」
「まだ取り調べ中だ。この部屋を出ることならん」
「じゃ、どうすれば……」
「そこにあるだろ」
取調官が指さした部屋の隅に、変哲もないプラスチック製のバケツが一つ、ポツンと置かれていた。
「まさか、あの中にしろと……」
「安心しろ。紙は私が持ってる」
綾音は激怒した。そんなこと、できるわけがない。彼女は掴みかからんばかりに机の前まで詰め寄り、取調官を滅茶苦茶に罵った。
しかし、取調官は何を言われてもニヤニヤと笑っているばかりで、取りつく島もない。結局、綾音は折れるより仕方なく、取調官の意に沿った証言を偽り述べた。
「そのビラは正確には覚えていませんが、とにかく前学期の末頃のいつかの昼休みに受け取った物です。ひとり学食に向かっている途中の廊下で、こっそり手渡されました。相手はマスクをして眼鏡を掛けていたので正体はわかりません」綾音が両の太ももをすり合わせながら、早口に言った。
「なぜ私たちに報せず、しかもそれを取っておいた?」
「他意は無いです。そんなビラを貰ったのは初めてのことで、ただ何となく物珍しく、つい持ち帰ってしまいました。書かれた内容に共感したなどということは一切ありません。通報しなかったことについては、単にそのことに気づかなかっただけです。完全に私の落ち度で、うかつでした」
「……まあ、よかろう。それではとにかくお前は、お前自身の手と意思により、このビラを隠匿していたことを認めるのだな」
「ええ、認めます。何でも認めるから、とにかく、早くトイレに行かせて!」
「わかった。それじゃここに、いま言ったことを自書し、署名捺印しろ」取調官が机の引き出しから白紙の調書と朱肉を取り出した。
「ここね、ここに書けばいいのね――よし、書けた。捺印はどうすればいいの? 今ハンコなんて、持ってないわよ」
「両手指の全ての指紋を押してもらう。それぞれ枠が決まってるから、間違えるなよ」
最後の一本――右手小指の指紋を押すときに、いよいよ慌て震えて、朱肉が枠からずれ拡がった。取調官がまた新たに白紙の調書を取り出して、初めからの書き直しを命じた。
既に限界を迎えていた綾音の気力は、これで完全に消え失せた。生温かい液体が彼女の股ぐらから太もも、さらに爪先へと伝わり、その周りの床に、かすかに色づいた水たまりを作った。




