step1 放浪の果てに
step1
──ギーーーン
真夜中の冷たい空気を引き裂いて、芝の上を白球が滑る。
顔の下半分を覆うヒゲから汗が飛び散る。
──ギーーーン
誰もいない球場に打撃音だけが響く。
ボックはマウンドへ向かってピッチングマシンを止めた。「ロボリス3号」。錆びが浮いたボディーの文字がぼんやりした照明に揺れる。
セキドーム球場。
信じられないほど高い丸天井は、無数の六角形の杉板で埋め尽くされていた。
「カメの甲羅の中にいるみたいだな」
ボックは思わずつぶやいた。
パネルを開いて、高めのストレートを選んで左打席に戻る。赤いランプが点灯して、ゆっくりとマシンが唸り始めた。
1球目は外角のシンカー。
「やっぱり、ぶっ壊れてるのか。まあ、いいだろう」
2球目はフォーク、3球目はスライダー。4球、5球、無心で打ち続けた。
ボールがライトフェンスの手前に白い塊を作った。ボックは、まぶたの裏でイメージする。9回表、ツーアウト、ランナー二塁。マシンがアームを軋ませてストレートを投じる。バットの横っ面に乗せたボールを渾身の力で飛ばす。膝の高さから浮かび上がった打球が、頼りない照明灯の鉄骨を直撃してフィールドに跳ね返った。
「ヘイ、あんたやるな!」
鍵の束を鳴らしながら黒人の大男が近づいてきた。一塁側のダグアウトには、手を振る若い男が二人と派手な化粧の女たち。みんなひどく酔っ払っていた。
「俺は、大酒飲みのニトロ。たまにガストンズのサードを守ってる。あんたは例の代打屋の……」
「ボックだ」
男の白い歯が鈍く光った。
「ママから聞いてるぜ。確かにあんたはスラッガーらしい」
酒臭い息を吐きながらニトロがいった。それからボックのバットを手にして、よろけながら右打席に入った。ベンチの仲間たちが歓声を上げる。
「あんたはついてるぜ。ガストンズは最高のチームさ。たとえクリスマスの晩だってスタンドは客で一杯になる」
陽気に話しながら放つ打球は、ジェットコースターのように急角度で曲がる。
「ぶっ飛んだだろ、この球場には?だけどアレには気付いたか?アレに」
ニトロの表情が引き締まる。マシンが投げた速球に鋭くバットが振り下ろされる。
──ポチャン!
飛んでいったボールが音をたてて落ちた。驚いたボックを見てニトロが大声で笑い出した。
「ハッハッハ、まだ聞いてなかったみたいだな。あれはツリボリ、釣り堀だぜ!」
ボックはマシンを止めて外野へ向かった。グラウンドから突き出したパイプから水が滴り落ちている。レフトとセンターの中間辺りに、木枠で縁取られた稲妻型の池があった。
「どうだい、よければ釣り竿もあるぜ?」
追ってきたニトロは、はっきりしない口調でそういった。身体を動かしたことで酔いが回ったようだった。
「まさか、ここでクジラでも釣れるっていうのか?」
精一杯の冗談のつもりだったが、ニトロはにこりともしない。
「それは燃えるクジラか?」
ボックはふらつくニトロを芝の上に座らせた。
「まあいいさ。燃えるクジラは、最近じゃ俺の馴染みの酒場にまで現れるんだ。ヘイ、疑ってるんじゃないだろうな?」
「いや、信じてるよ」
ボックはベンチに向かって合図した。
「あんたも自己紹介を考えておいたほうがいいぜ……」
そのうち眠ってしまったニトロを仲間たちが抱えていった。
ボックは宿に戻ってシャワーを浴びた。それからじっと鏡を見つめると、顔を隠しているヒゲをすべて剃り落とした。
ベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。窓を開けると闇の中に杉の大木が見えた。ボックはウイスキーの封を切って、そのまま喉に流し込んだ。
代打屋としていつものように球団に売り込みにいくと、オーナーからシーズン契約を提示された。ボックは少し驚いたが、あっさりとうなずいて長年の旅の足だったキャンピングトレーラーを売り払った。
頭の中でぐるぐると言葉が巡る。そうだ、もうたくさんだ。流れ着いたこの街は、きっと終わりにふさわしい場所なんだろう。
だんだんと意識が薄れていく。眠りに落ちる寸前、深い森の中で斧を振る自分の姿が浮かんだ。
◇
カラフルな露店が並ぶ十字路を歩くボック。汚れたトラックが、人混みにクラクションを浴びせながら通り過ぎる。石橋をくぐる運搬船から陽気なスカが聞こえた。
世界の形を変えた大災害。
セキの街にもまだ多くの傷跡が残っていた。駅の向こうに建つビルは真っ二つのままの姿だった。積み上げられた瓦礫の上には小船の残骸が乗っている。
ボックは足を止めてその光景を見つめた。人々の悲鳴が埋め尽くした場所で、今は屋台の親父が焼きイカを売り、客は崩れたブロックに座ってそれを頬張る。
ふと、誰かに見られている気がした。ボックは顔を伏せつつ人波に逆らって進んだ。
街の中心から少し離れると、山の労働者が利用する温泉宿やサウナ屋が続く。セキドーム球場は街を見下ろす丘の上にあった。球場の先には木材の集積所と番小屋しかない。そこからは緑の山々がどこまでも連なっている。
正面ゲートから右へいくと、古い三輪のリリーフカーを整備している若い女がいた。
「あの、クラブハウスは……」
「あっちです」
ツナギ姿の女は顔も上げずにスパナで扉を指した。ボックは首を傾げながら中へ入っていった。
「おや、あんたヒゲは?まあいいか、ここにお座り」
白髪で結った大きな団子。ロッカーにもたれかかっていたのは、ガストンズのオーナー夫人=ガストンママだった。ボックはいわれるまま長椅子に腰を下ろした。
「ヘイ、昨日は迷惑かけちまったな」
ホワイトボードの前でニトロが照れたように笑った。隣には、若い選手がもじもじとした様子で立っている。
ママがボックの正面に座った。
「どうだい、この街は気に入ったかい?」
「はい。今までいったどの街より活気があります」
「セキの名物は、木屑と蒸気と重油さ。肺が真っ黒になりゃ一人前よ。男は還暦前にはくたばる……冗談だよ、笑いな!」
睨みつけられたボックは仕方なく笑った。
「独立リーグ=IBLの野球はわかってるね?条件はこの前ダーリンとあんたが決めた通りだ。さあ、さっさとしとくれ。アタシは忙しいんだ」
タバコに火を点けたママが、テーブルの上に契約書を置いた。ボックは息を整えてから親指の指紋を押した。
「いいだろう。今日から坊やはガストンズの一員だ。紹介しとくよ。ニトロはもういいだろ。横にいるのはショウタだ」
「初めまして、ボックさん。中継で見て憧れてました」
青年が深く頭を下げた。
「まだ子どもみたいだろ?でも、まあまあのキャッチャーなんだぜ」
ニトロが笑った。
「後のことは、この二人に頼んである。お前たち、しっかり案内しな!」
ガストンママは、タバコをくわえ直してドアへ向かった。
クラブハウスを出ると、ニトロが先頭になって歩いた。
「ヘイ、まあ気楽にしてくれ。チームの連中はとっつきづらいが、いい奴ばかりだぜ」
ショウタがぼそりとつぶやく。
「……みんな優しいけど、とにかく酒癖が悪いです」
階段の先の扉を開くと、湿った芝の匂いがする風が吹き抜けた。屋根の中央、カメラの絞り羽根のような集合板が開いていて、ぽっかりと丸く青空が見えた。パークビジョンは年代物で所々パネルが欠けている。
グラウンドには練習中の選手たちが散らばっていた。キャッチボールの音、打撃音、笑い声が聞こえる。
「おう、来たねー」
ベンチの前でメモをとっていた、冴えない教師のような男。
「監督のタカハシです。期待してるよ」
「よろしくお願いします」
ボックは軽く頭を下げた。
その様子を見届けたニトロが、振り返って大きく手を振った。
まず浅黒い肌の男が、リズミカルに足踏みしながら近づいてきた。
「俺はチャック。外野の要で、火の神様ゲルラングリランを敬う者ね」
祈りの踊りを始めたチャックは、ニトロになだめられて引き下がった。
「……まあ、悪い奴じゃないのよ」
金髪の男が苦笑いする。
「アタシはコジロー。宇宙まで飛ぶフライでもキャッチできるの」
欠損した左腕に装着した金属のアームが伸びて、ベンチからタオルをつかんできた。
「ね?」
細身の女が短く言い放つ。
「ジョディー。セカンドを守ってる。下手な奴は容赦しない」
そこへ、ひょいと躍り出た影があった。
「おお、新人よ」
顔に深いシワを刻んだ老人。
「ワシはゲン爺と呼ばれとる。名とは風のようなものよ。吹けば散り、吹かねば……」
「わかった、わかった。今夜は歓迎会だ。残りの奴はアスナロ亭で挨拶してくれ!」
ニトロが集まってくる選手たちを押し戻した。
「あんたが例の有名人か?」
一際背の高い選手が汗を拭いながら歩いてきた。
「ザイオンさん、やめとけって」
ショウタが小声でいった。
「このチームは、そこまで落ちぶれてないと思ってる」
ボックの表情が険しく変わった。ニトロが慌てて前に出る。
「ヘイ、ボックはそんな……」
「俺は確かめたいだけだ。あの事件が本当なのかどうかを」
ボックは口を開こうとしたが、別の男が割って入った。
「こいつは、まだ握手はできねえっていってるんだ。入団したのが怪しい男だったら、街の奴らも黙っちゃいねえだろ?」
「ダイク、あんたまでなんだ」
ニトロが小柄な男にいった。
「……違う」
ボックは声を絞り出した。
「確かに俺は暴力沙汰を起こした。だけど意味もなく人を殴ったりしない。それに絶対に八百長なんかしない」
それだけいって黙り込んだ。
「その言葉を信じる根拠は、今のところない」
「ザイオン!」
ニトロの大声にザイオンは肩をすくめた。
「チームに必要なのは、実力の前に信頼だ」
睨み合う二人。先に視線を逸らしたザイオンは、外野の方へ歩き出した。ダイクもグラブを片手に去っていく。その背中が遠ざかるまで誰も口を開かなかった。
ニトロがため息をつく。
「気にしないでくれ、ボック。あいつらも悪気があるわけじゃないんだ。ただ、このチームを誇りに思ってるだけで」
「ああ、そうなんだろう」
胸の騒めきが止まらない。ボックにそれ以上口を開く気力は残っていなかった。
──ギャアーーーーー!
遠くから歪んだ金属音が聞こえた。丸く切り取られた空を真っ赤な炎の筋が横切っていった。




