第99話 「俺は、もうあなたを、研究仲間以上に思っている」
私は机に向かっていた。研究室の灯りは蝋燭が二本だけで、羊皮紙の端が薄い影を落としている。ハイレドンの補給拠点から持ち帰った配置図の最終版を清書しているところだった。
インクの匂いと、乾いた紙の匂い。三十年近く嗅ぎ慣れた匂いのはずなのに、今夜はどこか落ち着かない。
扉が叩かれた。二回、短く。
「ルーシェ先生。配置図の最終確認をさせてくれ」
ガーレンの声だった。
低く、平坦で、急がない声。諜報員の声。
「あ、はい、どうぞ」
立ち上がって鍵を外した。
扉を開けると、ガーレンが片手に手帳を持って立っていた。もう片方の腰には銀の革張りスキットル。三日月の紋章が刻まれた、古い造りの一品だった。
夜風が廊下から入り込んで、蝋燭の炎が一度だけ揺れた。
ガーレンが机に歩いてきて、椅子を引かずに、私の横に立った。配置図を覗き込む位置。肩と肩の間が、掌ひとつ分しかない。
「この行、誤字がある」
指が羊皮紙の端を指した。
目で追うと、確かに「補」の字が「捕」になっていた。
「あ、本当ですね、すみません」
「いい。直しておいてくれ」
ガーレンの指が羊皮紙から離れた。離れたのに、肩のすぐ横に、まだ熱が残っている気がした。
蝋燭の芯が小さく爆ぜた。それ以外、音が消えていた。
「ルーシェ先生」
「はい」
「俺は、もうあなたを、研究仲間以上に思っている」
眼鏡のブリッジに手が伸びかけて、止まった。指が宙で震えて、そのまま膝の上に落ちた。
「えっ」
「困らせたか」
ガーレンの声は変わらなかった。低く、平坦で、急がない。けれど目だけが違った。黒い瞳がまっすぐ私を見ていて、逸れなかった。
「あ、いえ、その、私も、その」
言葉が途中で詰まった。三十年近く、論文の中でしか言葉を紡いだことがなかった。感情を口にする構文を、私は持っていなかった。
「答えは要らない。ただ、知っておいてほしかった」
ガーレンの手が伸びて、私の右手を取った。
指が重なった瞬間、体温が流れ込んできて、耳の先が一秒で赤く染まったのが自分でも分かった。眼鏡のブリッジを直そうと左手が反射で動いて、レンズの縁に指が当たり、眼鏡がカタカタと小さく揺れた。
ガーレンが、椅子の背に片手を置いて、私の方へ屈み込んだ。
唇が重なった。
目を閉じると息が止まった。唇の温度だけが確かで、それ以外の感覚が全部遠くなった。
数秒。
ガーレンが唇を離した。
「今夜、ここに泊まっていいか」
心臓が、耳の内側で鳴っていた。蝋燭の芯が爆ぜた音と、自分の心拍と、どちらが大きいか分からなくなる。
「あ、あの、ガーレンさん、私、その」
ガーレンの指が、私の頬に触れた。指先の温度が、頬骨の線をなぞるように、ゆっくり滑った。
「ごめんなさい。私、その、初めてで、あなたが、本気なのか、まだ……分からなくて」
声が消え入るように細くなった。指が膝の上で握られていた。爪が掌に食い込んでいるのに、痛みより恥ずかしさの方がずっと大きかった。
ガーレンの手が、ゆっくり離れた。
「分かった」
声は変わらなかった。怒りも、落胆も、乗っていないように聞こえた。
「無理強いはしない。お前が、答えを出すまで、待つ」
腰のスキットルの蓋を、親指でカチッと閉めた。
銀の三日月紋章が蝋燭の光を拾って、一度だけ光った。
「作戦が済んだら、また話す。それまでに、考えておいてくれ」
「はい」
ガーレンが扉に手をかけた。
蝋燭の炎が、扉の風でまた揺れた。扉が閉まった。
椅子に座り込むと、体の奥に熱が残っていた。唇の感触が消えない。
その先へ進む寸前で止めたのに、残った熱が消えなかった。
指先がまだ震えている。机の上の鏡を見ると、耳の先まで赤くて、眼鏡が曇っている。
蝋燭の熱のせいか、自分の体温のせいか、たぶん、両方だった。
三十年近く、研究漬けで生きてきた。触れかけた感覚を、どこに仕舞えばいいのか分からない。
――あの人、本気なのかしら。
引いてくれた。それは本気の証拠なのか。それとも、私が興醒めさせたから引いたのか。
答えが出ない問いが、論文の仮説を立てる時と同じように、頭の中をぐるぐると回り始めて、止まらなかった。
窓の外に風が吹いた。夜気が研究室の隙間から入り込んで、蝋燭が一本消えた。残った一本の光だけが、机の角を照らしていた。ガーレンの外套の匂いが、まだ部屋に残っていた。
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