第96話 「呼び出しが来た」
朝食を終えると、別邸の馬車を中層に向けて走らせた。ヴィルヌアの坂を下って、ドルク鉄鋼商会の本店へ向かう。
ルーシェからの呼び出しが、昨夜の伝書で届いていた。補給拠点の調査結果が出たから皆で来てほしい、と。
馬車を降りた瞬間、看板が目に入った。
ドルク鉄鋼商会・本店の看板は、数ヶ月前より二回りは大きくなっていた。壁には各国王室の紋章入り書状が額装されて並び、玄関口には革張りの椅子と水晶のシャンデリアが据えられている。
工房と事務所と接客室が別棟に分かれ、通路には絨毯まで敷かれていた。中層の鍛冶屋が、いつの間にか商会の体裁を整えている。
―――奥の工房から、鉄を打つ音が響いていた。
革のエプロンに古いブーツ。末娘ハナが生まれてから禁煙したはずのパイプを口の端で揺らしながら、片腕で鎚を振るドルクの姿が、磨き上げた応接間とまるで噛み合っていない。
工房の敷居を跨いだ瞬間、ドルクがこちらを見た。鎚を打つ手は止めないまま、口元だけが動く。
「お嬢ちゃん、よく来たな。生きてたか」
「ドルク、ただいま」
「一段ときれいになったな」
パイプが口の端で揺れた。目が笑っている。
「誰かいい人でもできたんじゃねえか?」
訓練された侯爵令嬢の微笑みが、ほんの一瞬、固まった。
頬の筋肉が勝手に引きつるのを整えるのに、呼吸が一つ必要だった。
「何のことかしら」
ドルクの口がにやりと歪む。
「職人の目を舐めるな」
背後から風を切る音がして、真鍮の鍋蓋がドルクの後頭部を直撃した。ガランと乾いた音が工房の天井に反響する。
「あんた、ご令嬢様に向かって何言ってんのよ!」
ミラが厨房の暖簾を片手で押さえたまま、蓋を構え直している。
ドルクが片手で後頭部を押さえた。
「いてっ」
小さく笑った。前と同じだ。裕福になっても、この二人は何も変わっていない。
カイルが横に立っていた。こちらを見ないようにしているのに、耳の先がほんの少し赤い。
シャルロットがドルクに一歩近づいて、低い声で囁いた。
「ドルク、目が良いわね」
ドルクがにかっと歯を見せた。
「ちげえねえ」
ドルクが鎚を一度、台に置いた。奥の帳場に向かって声を張る。
「先生、お嬢ちゃんが来たぞ。応接間に頼む」
「はーい、今行きます」
奥からパタパタと軽い足音が近づいてきた。帳簿を抱え、インクの染みたローブ、眼鏡のブリッジ。ルーシェだった。後ろからトールとミナも顔を覗かせる。
「リーラさん、来たっすね!」
「姐さん、こっちこっち」
トールが盾を背負い直し、ミナが手で奥を示す。
「皆さん、来てくれたんですね。こちらへどうぞ」
ルーシェが先に立って、絨毯の敷かれた通路を案内する。鉄を打つ音が、一段、遠くなる。
応接間の扉をくぐると、灯りの色が変わった。磨かれた水晶のシャンデリアの下に革張りの椅子が並んでいて、すっかり大商会の応接間だった。
ガーレンと、一度だけ目が合った。半月前にガーレンへ頼んでいたルーシェの身元調査――出身、家族、十年分の収支、結社との接点の有無――その報告は、「真っ白」の一言で上がっていた。カイルにもシャルロットにも、その夜のうちに共有されている。
私は一歩前に出た。
「ルーシェ。補給拠点の話の前に、一つだけ。あなたを、正式に仲間として迎えたいの」
ルーシェが帳簿の角を握り直した。
「その前に、聞いてもいいですか。皆さんが、本当は誰なのか」
工房の鉄を打つ音が、一度止んだ。
カイルが進み出た。
「カイル・エル・ルグランド。ルグランド王国の、第二王子だ。今は『カイル』で通している。事情は察してくれると助かる」
ルーシェの瞬きが、二度、三度と続いた。帳簿を抱える腕が固まったまま動かない。
「で、殿下、ですか……」
ルーシェの腰が深く折れた。王族に対する、正式な礼の角度だった。
「ラヴェルン侯爵家のシャルロットよ。こちらも、よろしく」
「お噂は、かねがね」
「私は、知ってるよね。リーラよ。改めてよろしく」
ルーシェが頷いた。深く、一度。
「お三方の事情は、分かりました。それ以上は、もう聞きません。ガーレンさんのことも、ドルクさんとミラさんのことも、トールくんのことも。聞かずにおくのが、たぶん私の仕事になる」
トールが盾の縁を握り直して、にかっと笑った。
「ルーシェ先生、これからもよろしくっす!」
ミナが横から肘でトールをつついて、ルーシェに向き直った。
「先生、よろしくね。あたしも分からないこと、また色々聞くから」
ルーシェの肩の力が、ふっと抜けた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
顔を上げたとき、眼鏡の奥の灰色の目は、いつもの光に戻っていた。
そこまで言って、ルーシェが急に身を乗り出した。
「あ、でも、それと別に! 別に、なんですけど、聞いてください、私、本気の古代文明研究者で、専門は五千年前の文明全般、都市構造、流通網、線形計算、魔法体系、神話、何もかも。九使徒と契約魔法はその数ある支流の一部に過ぎないんですけど、文献の中にしかいない『魔法猫ノクス』の名前をギルドの掲示板で見つけたとき、震えて三日眠れなくて」
ルーシェの早口が、止まらなくなった。
「フレイムソードの図解、あれ書いたのリーラさんですよね、共鳴位相の補正式が完全に古代式で、私あれ写本しました。三回。それでこの間トールくんの盾、見せてもらったら案の定共鳴対応の改造で、つまり皆さんの戦闘そのものが古代魔法の生きた実験で、私の文献研究の答え合わせで、もう、それを近くで観察できる機会、もし逃したら、私、私、たぶん一生後悔します」
眼鏡のブリッジを押し上げる指が、興奮で震えていた。
「ですから、お受けします。頭も、足も、全部使ってください。代わりに、戦闘の後でノクス様と魔法剣の挙動だけは観察させてください、お願いします」
ノクスが私の足元から尾を立て、ルーシェの足首に一度だけ擦り寄った。歓迎の合図と――
「『様』はいらん」
不機嫌の通告が、同時に届いた。もちろん私だけに。
ルーシェが目を細めて、ノクスの背を指の腹で撫でた。
応接間に、鉄を打つ音だけが、また戻ってきた。
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