第95話 「あんた達、いつまで隠す気よ」
黒い髪の女が、椅子に座っていた。窓のない部屋だった。壁も天井も見えない。ただ椅子だけがあって、女がそこに腰を下ろしている。
髪が長く、膝の上まで流れていた。
顔は見えなかった。
見えないのに、口元だけが動いた。
「お前、いい子だな」
声が遠かった。水の底から聞こえるような、輪郭のぼやけた声だった。
答えようとしたのに喉が動かず、伸ばした指先が女の肩に触れる寸前だった。
―――目を開けた。
天井の木目がぼやけて二重に見えた。瞼が重い。体が重い。
布団から腕を出そうとして、左腕が途中で止まった。副木の留め具が肘の内側を圧していた。
右手で額を拭った。汗が冷たかった。
黒い髪の女。顔がわからない。声だけが残る。
「また夢に出た。黒い髪の女の人。顔が見えないの」
枕元で金色の目が開いていた。ノクスが前足を組んだまま、こちらを見ている。
「ただの夢だ。気にするな」
「ノクス、絶対知ってる」
「知らん」
耳が、二つともぺたりと横に倒れた。金色の目が、すっと細められて、視線が壁の方へ逸れた。興味がない、と全身で示すときの仕草だった。
ずっと一緒にいれば、わかる。これは、嘘をついている時の顔だ。
起き上がるとふらついた。ふた月寝込んでいた体は、自分のものとは思えないほど頼りなかった。
壁に手をついて、息を整えた。別邸の朝は静かだった。
フィオレが階下で朝食の支度をしている音が、薄い壁越しに聞こえてくる。鍋の蓋が触れ合う小さな音。湯が沸く低い振動。
着替えを済ませて階段を降りると、玄関の外に見慣れた馬車が停まっていた。
お父様だった。
「この机を借りるよ」とフィオレに一言告げて、父様は革の鞄から道具を出した。午前の往診の前に立ち寄ったのだろう。白衣の袖を捲り、私の左腕を取った。
「座りなさい」
言われるまま、椅子に腰を下ろした。
父様の指が包帯を解いていく。手際がよかった。指先に迷いがない。ヴェイン侯爵家の当主として、この手で何百人の患者を診てきた手だ。
包帯の下から現れたのは、副木を巻き込んで固められた石膏の殻だった。ふた月の間に乳白色の表面が黄ばみ、所々に細かいひびが走っている。
父様が鞄から小さな鑿と木槌を取り出した。鑿の刃を石膏の縁に沿わせ、木槌で柔らかく、こつ、こつ、と叩いていく。
ひびが、刃の通り道に沿って広がる。
石膏の殻が二つに割れて、内側の副木が顔を出した。父様がそれを丁寧に外し、膝の上に置く。腕が、一気に軽くなった。
左腕を見て、右腕と並べる。明らかに細かった。
骨が浮いている。ふた月の固定で筋肉が痩せて、手首の腱がくっきり透けていた。
父様が淡々と言った。
「骨は、まっすぐ接いだ。母さんの薬草と、ふた月の固定が利いた」
指を握ろうとしても力が入らない。三本目の指が途中で止まって、それ以上曲がらなかった。
「筋肉は痩せた。これは時間をかけて戻すしかない。治癒魔法では戻せん」
知っている。
神経と筋繊維の再教育は魔法の管轄外だ。
「毎日少しずつ、握る動作と物を持つ訓練を。三ヶ月で半分、半年で全部、戻る」
「はい、お父様」
父様の手が、私の肩に触れた。一度だけ、撫でるように。
「お前が生きていてくれて、よかった。母さんもノエルも、祖母の家でお前を待っている」
喉の奥が、一瞬、詰まった。
袖の中から小さな包みを出した。押し花だった。別邸の庭に咲いていた薬草の花を、寝込んでいる間に乾かしておいたもの。
「お父様、ノエルに、これ」
父様が受け取って、内ポケットにしまった。
「次に祖母の家へ便りを出す時に渡しておく。歌の続きを、聞いておくよ」
「私は午後の患者がいる。診療所を空けるわけにはいかん」
父様が革鞄から、封筒を取り出した。
「これを、お前に。母さんからだ」
受け取った。
手のひらに、祖母の家の塵がわずかに残っていた。
父様が立ち上がって、鞄を閉じた。
「お前との約束は、守る。お前も、無理をするな」
あの夜、私が告げた言葉が、まだ家にあった。
「お父様は診療を続けてください。普段通り過ごすのが家を守る最善です」。その一言だけを、父様は二月の間、守り続けてきた。
父様が玄関の方へ歩いていった。玄関先で御者と交わす短い声がして、馬車の戸が閉まる音がした。
手紙を見下ろした。封蝋に薬草の押印があり、母様の丁寧な文字が表に並んでいる。
封を切った。
> ノエルは元気。
> 薬草園で歌を覚えた。お姉ちゃんに会いたい、と毎朝言っている。
背中が、熱くなった。
肩甲骨の間、刻印のある場所が、一瞬だけ、内側から焼かれるように脈打った。
手紙を握る指が止まると、足元に毛の重みが寄った。ノクスがいつの間にか椅子の下から出てきて、私の靴の甲に頬を擦りつけている。何も言わない。
手紙を畳み直した時、扉が開いた。カイルだった。
短く切り揃えた金髪に朝の光が差している。革の胸当てを着けたまま、視線が私の左腕に落ちた。副木のない、細くなった腕に。
「ふた月か、長かったな」
「うん。でも、動かしていけば元に戻るから」
カイルが小さく頷いた。
それ以上は聞かなかった。
この男はいつもそうだ。
朝食の席に、全員が揃った。
フィオレが焼いたパンと野菜のスープ、卵焼き。別邸の食卓は本邸より小さい。リーラ、カイル、シャルロット、ミナ、トール、ガーレン、フィオレ。七人が肩を寄せるように座っている。
ミナとトールが隣り合っていた。手元がやけに近い。パンの籠に手を伸ばした二人の指が触れた。
ミナの手がびくりと引っ込んで、トールの手も同時に飛び退くと、パンが籠の中で転がった。
食卓が、静まる。
シャルロットが紅茶を一口飲んでカップを置いた。
「あんた達、いつまで隠す気よ」
ミナの耳が赤くなり、首筋まで染まっている。
「え、あの、何のこと」
「縁側で手繋いでる時点で、全員にバレてるわよ」
フィオレの兎耳がぴくんと立った。
「はい、私も、気付いてました」
ガーレンが腕を組んだまま、低く言った。
「ハイレドンの行軍計画にも影響する。早めに白状しろ」
カイルが口元を緩めた。小さな笑みだった。
「ノエルの絵にも、いつか書き足せるな」
ミナとトールが同時に椅子から立ち上がって、背筋を伸ばした。
「す、すみませんでしたっ!」
声が揃っていて、シャルロットが呆れたように笑った。
「謝ることじゃないでしょ。バレバレなのに隠されてる方が、こっちは気まずいのよ」
ミナが涙ぐんで、トールが隣で拳を握っている。
「二人とも、よかったね」
声が自然に出ていた。ミナが涙を拭いながら笑った。
「姐さん、ありがとね」
「うん」
食卓の空気が柔らかくなった。
フィオレがパンの籠をもう一度回して、ガーレンがスープをお代わりした。
少しだけ迷って、口を開いた。
「あの、シャルロット」
「ん?」
「シャロって、呼んでいい?」
シャルロットの手が止まった。紅茶のカップを持ったまま、こちらを見た。
一瞬、きょとんとした顔になって、それから、柔らかく笑った。
「あんた、今更それ聞くの?」
耳が熱くなる。
「だって、お名前を縮めるのは、貴族の作法では失礼かと、ずっと思っていて」
「あんた、本当に堅いわね。とっくに『シャロ』でよかったのよ」
「シャロ」
口にした。確かめるように。
シャルロットが満足げに頷いた。
「うん、そっち。リーラに『シャロ』って呼ばれるの、悪くないわ」
そう言って、シャルロットは少し得意げに鼻を鳴らした。
「だいたい、妹が姉の呼び方にいちいち許可取るもんじゃないでしょ。あたしがあんたを妹みたいに可愛がってるの、もう知ってるくせに」
知っている。妹が欲しかったの、と前にこぼしたことも、妹がいたら着飾らせたかった、と笑ったことも、全部覚えている。
「……はい。覚えて、います」
「なら、堅苦しいのは今日で終わり。妹は、姉に甘えていいの」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
ミナが身を乗り出した。
「あたしも、シャロ姐さんって呼んでるけど、いいんだよね?」
シャルロットが噴き出した。
「あんたは、もう呼んでるじゃない」
「あ、そっか」
ミナの耳がまた赤くなった。
フィオレが控えめに手を挙げた。
「あの、私もシャロ様、と呼ばせていただいて」
「『様』はいらないわよ、フィオレ」
「は、はい」
兎耳がぴくぴく揺れていた。嬉しい時の耳だった。
カイルが横で小さく笑った。
「リーラ、よかったな」
「うん、シャロ」
確かめるように、もう一度呼ぶと、喉の奥が少し温かくなった。
家族が、また一人、増えた気がした。
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