第94話 副木の上の手
「ドルク、もう一つ渡したいものがあるの」
私は懐から小さな魔石を取り出した。緑がかった色。掌に乗る程度の大きさだった。
「これを炉の中央の煉瓦の下に埋めて。炉が呼吸するようになる」
「呼吸?」
「温度に小さな波が生まれる。鋼を鍛える時、その波に合わせて鎚を入れると、鋼の中の歪みが揃う。硬度が、三割は上がるはず」
ドルクが魔石を手のひらに乗せた。重さを確かめるように指を閉じて、目を閉じた。
「俺は何の魔法も使えねえぞ」
「使わなくていい。波を聴いて打つだけ。それは、あなたの職人技そのもの」
ドルクが目を開けた。火の点いていないパイプを、片方の口の端で軽く挟み直した。
「お嬢ちゃん、お前、いつまで俺の仕事を進化させ続けるんだ」
「あなたがついてこられる限り」
ドルクが笑った。大きな手で魔石を握り込んだ。
「炉が呼吸する、か。じゃあ俺は『炉息術』と呼ぶことにする。名前くらい、職人が付けてもいいだろう」
「お好きなように」
ルーシェが横で目を輝かせた。
「あの、文献的にはですね、その魔石の波動周波数を計測すれば」
全員の視線がルーシェに集まった。ルーシェが口を閉じた。
「また始まった、って顔してますよね」
ガーレンが手帳を閉じて立ち上がった。
「ルーシェ先生、商会との契約書、奥で詰めましょう。今のうちに」
ルーシェが眼鏡の奥で何度か瞬きして、それから立ち上がった。
「あ、はい、ぜひ」
二人が連れ立って、店の奥の事務室へ消えた。扉が静かに閉まる音がした。
縁側に目を向けると、末妹ハナがトールの膝の上で眠りかけていた。ハナの足には真新しい革靴。光沢のある黒い甲が、朝の光を弾いている。
前に来た時の、底の縫い目から指が覗いていたぼろ靴が嘘みたいだった。
ドルクもミラも、上着とエプロンが新しい仕立てに替わっていた。ミナは少し離れた縁の端に座って、湯のみを両手で抱えている。
トールの方を見ないようにしているのが、かえって視線の存在を浮かび上がらせていた。
ドルクがパイプを口の端に咥え直しながらこちらに頷いた。私もドルクに頷きを返して、声をかけた。
「ドルク、今日もありがとう」
ドルクがパイプを咥え直して、にやりと笑った。
「礼を言うのはこっちだ、お嬢ちゃん。お前さん達のおかげで、店もうまくいっている」
店を出た。ガーレンが馬車を回してきて、無言で会釈をすると御者台に座った。
トールは「久しぶりに家でゆっくり寝るっす」と言って実家に残った。
ミナも「あたしも泊まる」と当然のように荷物を降ろした。
馬車に乗り込みながら振り返ると、店の窓越しに、トールが弟妹を順番に抱き上げているのが見えた。ミナがその末っ子を受け取っていた。
馬車が動き出した。
中層の街並みが窓の外を流れていく。シャルロットが窓際で双剣の柄を磨いている。カイルが隣に座っていた。
何も言わなかった。肩が触れそうで、触れなかった。
馬車が石畳の継ぎ目で大きく揺れた。私の体が傾いた瞬間、カイルの手が伸びてきて、副木の左腕の上にそっと添えられた。
揺れが収まっても、離されなかった。
少し前の私なら、この手を払っていた。
誰かに触れられるのが怖かった。触れられた分だけ、いつかその人を失う痛みが大きくなる。
フィンを失った後、長い間、私は誰の手も自分から握らなかった。握らなければ、失う日が来ない。
そう信じて、距離を取り続けてきた。でも今、カイルの手は私の手の上にあって、私はそれを払わなかった。
払いたいとも、思わなかった。
むしろ、もう少し、このままで、と願った。
願ってしまった自分に、少しだけ驚いた。
神様。
私、また、誰かを失うのが怖い。怖いのに、もう、この手を離せそうにない。
ノクスが膝の上で丸くなって、鈴が小さく鳴った。窓の外で、夕陽を背にした浮遊塔の影が長く伸びて、中層の屋根を横切っていた。別邸までは、もう少し。
手の温度は、最後まで離れなかった。
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