第93話 ひと月の静寂
あの朝は、気力だけで起き上がった。昼にはもう寝台に逆戻りで、指一本動かすのも億劫になって、そのまま本格的に寝込んだ。
「情けない顔だな」
枕元で、ノクスが尻尾を揺らした。
「カイルの傷もミナの脇腹も、翌朝には塞がった。起きられないのはお前だけだぞ」
「それ、今わざわざ言う?」
「お前の体だけは、別格でやられたんだ。芯から魔力が抜けてる。ひと月は寝てろ」
実際、養生はひと月近くに及んだ。体の奥が空になったような感覚が、なかなか抜けなかった。
魔力が戻り始めたのは、二十日を過ぎた頃。寝台の上で、私はアロウィンに手紙を書いた。塔の核に封じられていた術式のこと。古代の配列が結社の手で書き換えられていたこと。神を殺す術式の雛形。その構造を、自分の言葉で書き起こした。
返事は三日で届いた。エルザの筆跡で、短く一行だけ。
「お前さんの封印で正しい。じゃが核は一つではない。気をつけろ」
核は、一つではない。その一行を、何度も読み返した。
落ち着いて歩けるようになったのは、三週目の終わり。トールの盾の修繕も上がったと聞いて、私たちはようやくヴィルヌア中層へ降りた。
ドルク鍛冶屋に着いたのは昼前で、店の前で私は足を止めた。
「え、ここ、ドルクさんの店だよね?」
すす汚れた木の扉は消えて、鉄の縁取りのついた重い扉に替わっている。看板も新しくなって、「ドルク鍛冶屋・本店」の文字の下に、金箔縁取りの紋章が三枚並んでいた。
「ラヴェルン侯爵家の翼竜紋、ヴェイン家のセージ葉紋、それから真ん中のこれ」
ミナが看板を指でなぞって、首をかしげた。
「獅子の紋章だな」
カイルが低く言った。私の足元で、ノクスが唸る。
「王家の獅子紋だ。王室御用達だぞ。王家全体が品質を保証する、辺境の鍛冶屋なら一生かけても届かない最高位の認定だ。この国でも掲げられる店は、数えるほどしかない」
「前にガーレンが運んできたのは、侯爵家の二枚だけだったのに」
私が寝込んでいる間に、店主の生涯の夢が真ん中に据えられていた。窓も、はめ殺しの曇りガラスから透明な硝子板に替わって、中で働く弟子たちが外から見える。
扉を押すと、以前とは違う重みが返ってきた。土間は広げられ、応接の長椅子まで設えてある。
奥からドルクがパイプを口の端に咥えたまま出てきた。
「お前さん達、来てくれてよかった。ルーシェ先生の段取りが、化けた」
ドルクはパイプの煙を吐きながら、指を折った。
「東鉱山ルートが安定してから、素材切れがゼロだ。流れ作業で生産も二倍。下層第二も中層第三もとっくに回ってて、もう次は下層第四と中層第五の準備に入ってる。王都ケルディアの商会から『支店を出してくれ』って打診が三件、隣街からも二件。先生の計算じゃ、このペースなら来月末には支店二十くらいに広がる、ってよ」
二十。声に出せなかった。まだ二ヶ月も経っていない。
初めてこの店の扉を押した時、ドルクは片腕で炉に向かい、トールに鞴を踏ませて、一本の剣をどうにか叩いていた。客はなく、土間には埃が積もっていた。あの寂れた店が、来月末には二十軒に増える。普通なら二代、三代かけて辿り着く規模を、ドルクとルーシェは数ヶ月で塗り替えようとしている。
「先生の古の知識が、まさかここまで効くとは思わなかった」
ルーシェが耳まで赤くなって、眼鏡を直しながら、
「あ、いえ、文献に書いてあったのを試しただけで」
ドルクがパイプを口から外した。
「先生、お前さん、うちの正式な番頭になってくれ。報酬は出す」
「え、え、ええっ!? でも私、研究が」
「研究しながらでいい。週に二回、帳簿を見てくれるだけで十分だ」
ルーシェが眼鏡の奥で何度か瞬きした。
「はい、お引き受けします」
ルーシェがドルク鍛冶屋の番頭になった。
立場上、ルーシェはこれから王都や隣街の商会と直接やり取りすることになる。北方商会の派閥情報も、彼女のところに自然と集まるだろう。そしてその情報を、ガーレンが「打ち合わせ」と称して取りに来る。表向きは諜報の仕事として。
ちらりとガーレンを見たら、窓の外を見ていた。
「あの、せっかくなので、今回うまくいった要因を共有しますね」
ルーシェが手帳を開いた。同時に、ガーレンも手帳を開いた。
二人の手帳が、卓上で隣り合った。
ルーシェが指で図を一つ書いた。鉱山と支店を点で繋いだ線が放射状に伸びる。
「鉱山三つから、中継商会五つを経由して、支店候補三つへ。今までは商会ごとにバラバラに運んでたんですけど」
ガーレンが、ルーシェの図の一本の線を、ペンの背でとんと叩いた。
「ここを潰した」
「はい、ここを潰しました。北の中継商会が、東の鉱山の鋼鉄を独占で抱え込んでいて、その商会だけ経由すると保管コストが三倍になっていたんです。だから」
「だから別ルートを通した」
ガーレンが、別の線を引いた。
「他の二つの中継商会で代替できることが、ガーレンさんが集めてくれた商会間の派閥情報で分かったんです。それで、この三本だけ残して」
ルーシェが、図の線を三本に絞った。
残りは消した。
「全体の運搬距離が四割短くなりました」
ガーレンが手帳に走り書きを足した。
「商会間の取引価格も、独占が崩れて二割下がった」
「あ、そっちも下がりましたか。じゃあ実質、原価が」
二人で勝手に計算を始めた。
ペンの音が二本、同時に手帳を走った。
ドルクがパイプを口の端で揺らしながら、こちらを見て肩をすくめた。
「もう俺が口を挟む隙はねえ。あの二人で勝手に俺の店を回してくれ」
そう言って、ドルクは奥の工房へ鎚を取りに戻っていった。
ミラが台所から「あんた達、お茶飲んで行きなさい」と顔を出した。
ミナはハナを抱き上げて顔を赤くしているトールを、横目で笑った。
シャルロットが双剣の手入れを始めた。
カイルが剣帯を直しながら、私を見た。
目が合って、すぐに剣帯に戻った。
私もルーシェの図を覗き込んでいた。
前世の港湾管理術と同じ構造だった。
懐かしかった。
ルーシェが、ふと顔を上げた。
全員が振り返った。
ドルクがパイプを咥えたまま戻ってきた。
「先生、それは紙にまとめて、後で読ませてくれ」
「あ、はい。すみません、私こういう話になると止まらなくて」
眼鏡を直した。
二度目だった。
ルーシェがガーレンに書類を差し出した。
「あの、これ、王城の経済情報の最新分です。お時間ある時に」
ガーレンが受け取る指先が、ルーシェの指に一瞬触れた。
ルーシェの肩が小さく震えた。
「で、ここからが面白いんですけど、あ、いえ、続きは今度で」
「昨夜からの続きからでいい」
「え!?」
声が出た。
ルーシェの耳が首まで赤くなった。
「あ、はい、ええと、夜更けにいらした時の話ですよね」
シャルロットの双剣を磨く手が止まった。
「ガーレン、あんた、ルーシェ先生の研究小屋にもう通ってるの?」
「諜報の打ち合わせだ」
ノクスが私の足元で息を吐いた。
「打ち合わせなら昼にやれ」
シャルロットが私の耳元に声を落とした。
「あの男が誰かを目で追うの、初めて見たわ」
ガーレンの手帳にペンが走っていた。
だが視線が時折り書類ではなくルーシェの横顔に止まっていた。
二人をそっとしておくことにして、私はドルクの方へ向き直った。
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