第91話 「眠れ。俺はここにいる」
薬草湯の匂いで、意識が浮かび上がった。布が額を拭っていた。温かくて、湿っていて、セージの匂いがした。
瞼を持ち上げた。半分しか開かなかった。
寝台の脇で、フィオレが布を絞っていた。白い兎耳が顔の側に、力なく垂れていた。目が赤かった。
「お嬢様」
「フィオレ。ありがとう」
声がかすれた。喉が乾いていた。
「お水、持ってきますね」
「いい。このままで」
フィオレの手が止まった。布を桶に戻して、寝台の縁に座った。
ノクスが枕元で丸くなっていた。金色の目が半分だけ開いている。
「お前、また誰か好きになるのが怖いんだろ」
声が、私だけに届いた。
桶の湯を替えに立ち上がって、部屋の隅で布を絞っている。
「ノクス、私」
言葉が詰まった。喉の奥が熱かった。
「フィンを死なせた。今度はカイルが、また私を庇って死にかけた」
「お前のせいじゃない」
「私の力が足りないせいだ」
ノクスが黙った。前足が枕のシーツを一度だけ掻いた。爪は出ていなかった。
「お前、強くなれ」
短かった。いつものように呆れた声ではなかった。
「うん」
「お前がそう決めたなら、俺は何も言わん」
誰も何も言わなかった。窓の外で虫が鳴いている。
「神様が、来てくれた」
「ああ。あの方が動くのは、珍しいな」
「うん」
ノクスの尾が一度だけ揺れた。それ以上は何も言わなかった。
部屋の隅の椅子で、シャルロットが双剣を膝に置いて座っていた。砥石を当てる金属の音が、規則正しく響いている。
「シャルロット、まだ起きてるの」
「あんたが起きるのを待ってた」
顔を上げずに答えた。砥石の動きは止めなかった。
「リーラ。あんた、これからもああいう真似をする気でしょう」
「うん」
「次は、あんた一人に背負わせない。私があなたを守る」
砥石を置いた。双剣を鞘に戻した。
「昔、似たような馬鹿を一人、看取ったことがある」
声が一段低くなった。
「だからもう、看取る側はやらない。そう決めたの」
窓の外に視線を流して、それきり何も言わなかった。
月光の縁に、双剣の柄頭が鈍く光った。
「眠りなさい」
声には返せなかった。瞼を閉じて、小さく頷いた。
しばらくして、もう一度目を開けた。フィオレが戻ってきていた。温かい布で首筋を拭いてくれる。兎耳が少しだけ持ち上がっていた。
「お嬢様、ゆっくり休んでくださいね」
手を伸ばした。フィオレの耳に触れた。柔らかかった。産毛のような白い毛が指の間を通った。
フィオレの肩が小さく震えて、すぐに力が抜けた。
「温かいわ」
「お嬢様の手の方が温かいです」
フィオレが少しだけ笑った。目はまだ赤かったけれど。
扉の外から足音がした。重くはない。でも迷いのない足音。
カイルが入ってきた。着替えていた。胸当ては外している。腕に包帯が巻かれていた。
何も言わずに、寝台の脇の椅子に座った。伸びてきた手が、私の手を包んだ。大きくて、乾いていて、剣の柄で擦れた指の腹が手の甲に触れた。
「カイル」
「眠れ。俺はここにいる」
目を閉じた。
カイルの指の温度、ノクスの毛並みの柔らかさ、フィオレが替えたばかりの薬草湯の匂いが、意識の底に沈んでいった。
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