第90話 「薬草湯、できました」
フィオレは薬草湯の桶を両手で抱えて、暗い廊下を歩いていた。別邸の夜は静かだった。窓から入る月明かりだけが石の床を青白く照らしている。
桶の中で湯が揺れるたびに、セージの匂いが鼻先に届いた。足が止まり、桶の縁を握る指が震えていた。
塔の最下層で見た。結社の徽章。
蛇が己の尾を呑む紋章。死体の襟元から覗いていた、あの刻印。
同じだった。
廊下の壁に背をつけ、桶を床に置いた。両手が空いても震えが止まらない。
六歳の朝が、瞼の裏に焼きついていた。南方の里。畑のある朝。
母のような人がいた。血の繋がりはなかったが、ずっと面倒を見てくれていた。
その女の人が私を裏口から逃がした。
背後で家が燃えていた。煙が空を黒くしていた。
男たちが現れた。全員、胸に同じ徽章を付けていた。蛇が己の尾を呑む紋。
茂みに押し込まれた。落ち葉が顔に張りついた。
その人が、振り返った。目が合った。何かを言った。聞こえなかった。男たちのもとへ戻っていった。
彼女は、男たちに殺された。私を逃がすために。
桶の縁を握り直した。湯がまだ温かかった。
なぜ私だけ生かされたのか、ずっと分からなかった。
廊下の窓の外で梟が鳴いた。枝が揺れる音がした。
リーラの寝室の扉が見えた。灯りは消えている。お嬢様は眠っている。
私には、何もできない。
――いや。
ないものを数え上げてはダメだ。
薬草湯を運べる。朝食を作れる。庭の薬草を育てられる。お嬢様の隣にいられる。
それが、生かされた者の務めだ。
唇が動いた。族語の短い祈りが、声にならない息だけで零れた。南方の里の、あの人へ。
桶を持ち上げた。指はまだ震えている。それでも歩き出し、寝室の扉に手をかけて静かに開けた。
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