表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

89/236

第89話 声が降ってきた

 声が、遠くから降ってきた。



「リーラ」



 瞼が、半分だけ持ち上がった。霧の空が、滲んだ視界の真ん中に広がっている。


 顔の上に、影が落ちた。


 金色の短い髪と、青みがかった灰色の瞳。


 カイルだった。


 胸当ての革が裂けて、まだ血で濡れている。


 だが、起き上がっていた。


 生きていた。



「大丈夫か」



 その言葉。


 息が、止まりかけた。


 思い出した。


 灰が降る中で、血の中で、フィンが最後に言った言葉と、同じだった。


 声を出そうとした。


 喉が動かない。


 涙だけが、勝手に頬を伝った。


 カイルの胸当てに、ぽつりと落ちた。



「お前、泣いてるのか」



 首を、わずかに振った。


 それで精一杯だった。


 カイルの手が伸びた。


 指が頬に触れかけて、止まった。


 フィンと同じだった。


 あの時も、指は途中で止まった。


 違う。


 この手は温かい。


 脈が打っている。


 生きている。



「泣くな」



 カイルの声が低く震えた。起き上がろうとして、脇腹に走った痛みで体が折れたのが、視界の隅で見えた。



「動かない、で」



 自分の声が出たのか、唇が動いただけなのか、わからなかった。


 視界の縁で、誰かが動いている気配がした。


 トールがミナの傍にいる。


 ミナの胸が、上下している、ように見えた。


 全員、生きている、と思った。


 たぶん。


 シャルロットの声が聞こえた。



 「二人とも生きてる」と言ったような気がする。



 あんたの猫のおかげで、と続いたかもしれない。


 確かではない。



 ――魔力が、空っぽだった。



 骨の芯まで、何もない。


 最後の方の記憶も、ぽっかりと抜けている。


 フィオレの兎耳が、視界を横切った。


 湯気の匂い、母様のハーニア葉だと、嗅覚だけが分かった。


 小さな手が、私の口元に器を寄せた。



「お嬢様、お母様の煎じ薬です。飲んでください」



 唇を、わずかに開いた。


 温かい液体が舌に滑り込んできた。


 苦み、それから喉の奥に冷たい清涼感。


 母の薬草。何度も飲んだ味。


 体の底に、薄く魔力が戻る感触があった。


 ほんの一滴の灯火。


 完全には戻らない。


 でも、息ができるようになった。


 カイルの腕が伸びてきた。


 私の肩を掴んだ。


 何か言っている。



 「お前も」のあたりで、音が途切れた。



 うん、と答えた、つもりだった。


 体が浮いた。


 腕が背中と膝の下に回ったのが、輪郭だけ伝わってきた。


 カイルの胸当てに頬が触れた。革と血と汗の匂い。


 心臓の音が、耳の横で打っていた。


 歩幅。


 腕の角度。


 全部、五千年前の戦場で、灰の中を運ばれた時と同じだった。


 あの時、私を運び終えたフィンは、息をしなくなった。腕の中で重くなっていったあの感触を、五千年経っても忘れたことはない。


 でも、この腕は。


 頬に当たっている胸当ての下、心臓が打っている。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 揺れに合わせて確かに、規則正しく。



 生きている人の鼓動だった。



 歩くたびに息を吐く音も、耳の上で響いている。


 生きている。


 生きて、私を抱えて、歩いている。


 涙が一筋、頬を伝った。


 今度はカイルの胸当てに落ちなかった。


 私の頬から、こめかみへと、横に流れた。


 シャルロットの声が、すぐ横で響いた。



「リーラ、聞いていい? あの猫が本気出したら、あんた、死ぬのか」



 声に、いつもの軽口の調子はなかった。本気で聞いていた。


 答えようとした。


 喉が動かなかった。


 曖昧に、唇だけが動いた。



「今日は、限界が、近かった、かも」



 嘘ではなかった。本当の限界がどこにあるのかは、私自身も知らない。


 でも仲間達が見たのは「使い魔の咆哮で同時治癒した代償」だけだ。


 それでいい。


 それで、辻褄が、合う。


 シャルロットが、息を一つ吐いた。



「次は、無茶させないようにする」



 返事はできなかった。


 カイルが何かを指示する声がした。


 シャルロットが応える声。


 トールが「絶対に離さないっす」と言ったのだけが、はっきり耳に残った。


 たぶんミナを抱えたのだろう。


 塔守の金属の足音が近づいてきた。



 「下まで、送る」と言った気がした。



 体が揺れた。籠が降りているのが、揺れの周期で分かった。


 籠の中に、小さな影が、いくつか。


 痩せた肩。剥き出しの腕。


 誰かのすすり泣き。


 別の誰かが、小さい声で名前を呼んでいる。


 ――子供達。


 祭壇の奥に、生贄として閉じ込められていた子達。


 シャルロットが一人ずつ抱え上げて籠に運び入れていた気配だけ、覚えている。


 トールがその上から布を掛けた感触も、たぶん。



 「全員、連れて帰る」と、誰かが言った。カイルだった気もする。



 風が変わって、霧が頬を撫でた。鎖が軋む音が、遠ざかっていく。


 最後に届いたのは、塔守の声だった。



「また来い、使徒よ。核が次に揺れる時に」



 ――必ず。



 声にはならなかった。


 また、来る。結社も、あれも。


 何度でも、封じ直す。いずれ、根元から。


 アヴェルナだけは、壊せない。あれは、世界の根に……。


 考えが、途切れた。


 意識が途切れた。


お読みいただき、ありがとうございました。

この物語を見届けたいと思ってくださったら、ブックマークと★で、そっと背を押していただけると嬉しいです。毎日更新しています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ