第87話 ぶっ殺す
目を開けると、石畳の上だった。背骨の痛みがすっと引き、口の中に残っていた血の味が、空気に溶けた。
立ち上がった。この体で立つのは久しぶりだ。いや、五千年ぶり、と言うべきか。
視界の端で、銀の毛先が黒に染まっていく。波のようにゆっくりと、腰までの長さがすべて黒に変わった。
足元の溶けた金属に、金色の瞳が映っていた。前世の、私の目だ。
声を試すと、喉の奥で低く転がった。
あぁ、こっちの声だ。
アヴェルナが、こちらに向かって歩いていた足を、止めた。二つの白い光が、揺れた。
「お前は」
軽く、首を回した。骨が、鳴った。口の端が、勝手に上がった。
「五千年経って、随分と弱くなったな。クソが」
アヴェルナが、後ろに半歩、引いた。
「馬鹿な。私は、神々より古い――」
「うるせえよ」
唇の端だけで、笑った。
「神々が、お前を封じるために、私を創った。そのために産まれた道具が、お前みたいな、クソに負けるかよ」
アヴェルナが、両手を上げた。再び影球が、膨らみ始めた。先ほどの倍の大きさ。塔の最上層の天井が、軋んだ。
―――動かなかった。
アヴェルナの影球が放たれて、塔ごと空気が震えて、直撃した。煙が晴れた。無傷だった。
「さっきは、随分とふっ飛ばしてくれたが」
軽く、肩を回した。
「完全に力を解放した私には、その程度の球、無意味だ」
「な――」
アヴェルナが、続けざまに、四つ、五つ、六つの影球を連射した。全部、空中で消した。
ただ歩いていた。アヴェルナとの距離が、一歩ずつ縮まる。
「な、なぜだ」
アヴェルナの声が、震えていた。
左手を、軽く振った。空気が、ぐにゃりと曲がった。目には見えない一閃が、アヴェルナの右腕を、根元から斬り落とした。
影の腕が、ぼとり、と床に落ちた。
「ぐ、あ」
足を、止めなかった。左手を、もう一度、振った。今度は、アヴェルナの左腕。肘から先が、引き裂かれた。影の体液が、虚空に飛び散った。
「やめろぉぉ!」
口を、歪めた。
「やめろ、だと。お前が五千年前に民を喰った時、何人がやめろと叫んだ。覚えてるか?」
右手を、軽く払った。アヴェルナの両膝が、内側に折れた。膝の関節が、引きちぎれた。アヴェルナが、その場に崩れ落ちた。
「うあ、あああ」
「黙れ」
アヴェルナのすぐ前まで、歩いた。しゃがんで、アヴェルナの顎を、指先で掴んだ。ぐい、と上向かせた。二つの白い光が、間近で揺れた。
「本当はぶっ殺すところだが、お前は封じるしかない。クソが。一万年は出てくるな」
アヴェルナが、震えた。
アヴェルナの顎を、放した。
立ち上がって、右手を、上げた。指を一本、上に向けた。
アヴェルナを取り囲むように、金色の鎖が、一斉に出現した。空中に。四方八方から。
鎖の数、千本以上。浮き島の空気が、金色の光で満ちた。
「ま、待てやめろ」
指を、下ろした。千本の金色の鎖が、一斉にアヴェルナを貫いた。膝に、腹に、胸に、顎に。
人差し指を、ぐるりと回した。金鎖が捩じれ、アヴェルナの体ごと、ねじ切られた。最後の絶叫が、空気を震わせた。
浮き島の中央。五千年前にこの手で刻んだ封印の陣。その上の、男ごと閉じ込めた黒い球の中へ、アヴェルナが引きずり込まれた。
黒い球が、金色に変わった。
表面に、金色の鎖が幾重にも巻かれた。
新しい封印が、古い封印の上に重ねられた。
陣が、金色に輝いた。
それから、静かに、鎮まった。
息を、ひとつ、吐いた。
倒れているカイルの方へ、歩み寄った。ミナはその三歩先に、トールに庇われたまま倒れていた。
膝をついて、指先を、胸の傷の上に翳した。古い言語を、一節、唇で紡いだ。指先から、金色の糸が伸びた。
カイルの胸の裂傷の縁を、一気に縫い留めた。三歩先のミナの脇腹の傷にも、同じ金の糸を伸ばした。
二人の傷が、一瞬で、塞がった。血が、止まった。
立ち上がった。シャルロットも、トールも、目で順に確かめた。動いている。呼吸も、ある。
「全員、生きてやがる」
ふっと、笑った。
最下層へ続く階段の縁で、何かが、息を吹き返した。四本足の影が、ふらふらと、階段を上ってきた。毛が逆立っている。金色の目。
「お前、相変わらず容赦ねえな」
ノクスの声だった。
ノクスを、見下ろした。
「黒猫、相変わらずうるさいな」
「ふん、よく言う」
ノクスが、足元に寄ってきた。尾を、私の踝に絡めた。
「あの娘に、戻してやる」
空を、見上げた。
「黒猫、あの子には、言うなよ。言ったら毛を全部毟るからな」
「ふん、相変わらず脅し方が雑だな。言わん」
ノクスが、短く頷いた。
目を、閉じた。毛先から、銀に戻っていく感覚があった。波のように、ゆっくりと。瞼の裏が、暗くなった。元に戻った、と分かった。
膝が、崩れた。ノクスが、地面に落ちる前に、首筋に体を寄せて受け止めた。
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