第86話 前世の私
知らない場所にいた。石造りの広間で、壁は遠く、窓はなく、天井だけがやたらと高い。床には古い文字が、足元から奥まで隙間なく刻まれていた。
塔の、どこかの、最上層のような場所。
何もない。
私の靴音だけが、響いた。
広間の中央に、椅子があった。誰かが座っていた。
黒髪。腰まで。癖のないストレート。瞳は、金色。
女だった。
その女が、私を見て、うっすらと笑みを浮かべた。
「来たか」
低い声だった。少女の声ではない。私の声でも、ない。
だが、知っている声、だった。
「あなた、誰」
声が、少し震えた。
「私は、お前だ」
女が、椅子に背を預けたまま、言葉を継いだ。
「五千年前の、お前」
息が、止まった。心臓が、止まったのかと思った。
「ようやく目を合わせたな」
女が、ふっと笑みを漏らした。
「私、死ぬの?」
「お前が死ねば、私も死ぬ。ふざけるな」
声に、初めて、苛立ちが滲んだ。
女が、椅子から立ち上がった。私より、頭一つ分、背が高かった。
「私が代わりに戦う。少しだけ、お前の体を借りる」
「私の体。返して、くれる?」
「返してやる」
女が、軽く息を吐いた。それから、私を見た。
「フィンって男がいた。あいつを喪って、私は壊れた。だから、お前にはあの痛みを引き継がせない。そう決めて――私自身を、お前から切り離して、奥に眠らせた」
胸の奥が、少し、軋んだ。
「あなた、私を、守ろうとしたの」
「ふん。お前が壊れたら、私も道連れだ」
でも、口元が、ほんの僅か、和らいでいた。
「ただ、記憶までは消せなかった。お前がカイルを見て胸が詰まるのは、記憶を共有しているからだ」
「お願い、皆を助けて」
女が、私に近づいてきた。手を伸ばして、私の額に、指を一本、当てた。
「お前、いい子だな」
視界が、反転した。
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