第84話 神の声
機械が、反撃した。
三本の脚のうち一本が、関節を伸ばした。蛇のように長く、鞭のように速く。
鋼の杭のような先端がミナの脇腹を狙った。
「ミナ、避けろ!」
祭壇の反対側にいたシャルロットが叫んだ。三歩分の距離を双剣を抜きながら詰めて、脚に割り込んだ。
双剣の一本で機械の脚を逸らそうとして、軌道が逸れなかった。
脚の方が太く、重く、勢いがあった。
シャルロットの双剣は脚の表面を擦って、軌道を数センチだけ歪めた。数センチでは足りなかった。
角度が変わっただけで、脚の先端はミナの脇腹を貫通した。
「ミナっ!」
トールの叫びが、最上層の空気を裂いた。
ミナの体が持ち上がった。脚の先端に串刺しになったまま、宙で一瞬止まった。
脚が引き抜かれて、ミナが石畳に落ちた。脇腹から血が広がっていく。
同時に。視界の隅で、男が動いていた。
機械に注意が向いた隙に、祭壇から三歩、カイルの背後に回り込んでいた。黒ローブの袖口から、黒い刃が滑り出した。
影を圧縮したような、形の歪んだ短剣。光を吸い込んでいる。
刃が、背後から肩越しに、カイルの肩から胸へ斬り上げた。
カイルが、息を呑む音すら立てなかった。
膝が折れた。フレイムソードが床を転がって、橙の炎が一瞬で消えた。
胸当ての革が肩口から裂けて、深い赤が広がっていた。カイルが前のめりに倒れた。
「カイル!」
声が出た。自分の声かどうかも分からない。
シャルロットが双剣を構え直して、機械の側面に回り込んでいた。一本目の脚の関節に刃を差し込み、てこの原理で抉り取った。
火花と紫の蒸気が同時に噴き、脚が一本、根元から外れて床に転がった。二本目の脚が反撃に振り下ろされた。
シャルロットは身を低くしてくぐり、すれ違いざまにもう一本の双剣で関節を斬り上げた。鋼の継ぎ目が裂け、脚の動きが止まる。
機械が大きく傾いた。残った一本の脚で必死に均衡を保っている。
「リーラ、今のうちに!」
シャルロットが叫んだ。
シャルロットの背中が大きく上下している。
「フィオレ!上がってきて、薬草持ってきて!」
最下層に向けて叫んだ。声が震えた。
ノクスはいない。
膝の力が一瞬抜けた。
けれど倒れなかった。倒れたら、二人の血が止まらない。
立っていなければ、唇を動かせない。シャルロットは機械の最後の一脚を捌くのに必死で、トールはミナを抱えたまま動けない。
カイルは石畳に伏せたまま動かない。誰も、こちらを見ていない。
――記憶がなくなっても、皆の命の方が大事だ。
お父様。
お母様。
ノエル。
ノエルの顔を、忘れるのか。
あの子の笑った顔を。
――ノエル。
嘘ついてごめんね。
お姉ちゃま、全部倒すって言ったのに。
息を、深く吸った。
古い言語の、封印術の音節を、喉の奥で組み始めた、その瞬間。
声が、頭の中に降りてきた。神レコルダだ。
「待て、リーラ」
疲れたような響きだった。
「お前と交わした契約は、無駄だったのかもしれんな」
息が止まった。
「神様」
「お前に『普通の幸せ』を生きろと頼み、お前がそれに頷いた。あの契約を望んだのは、私だ。前世の二百年、お前にたくさんのことを背負わせ続けた、その償いとして」
「はい」
「だが、その契約が今、お前から『救う自由』を奪っている。私は、また、お前を苦しめているのか」
涙が滲んだ。視界がぼやけた。
「神様、それは違います。私が、選んでいます」
「お前は、いつもそう言う。前世でも、今も」
―――短い沈黙。
「ならば」
音が、消えた。
浮き島の隅。ノクスが封じ込められていた黒い球が、内側から押し広げられるように脈打ち、表面に走った亀裂が一気に枝分かれして、ついに殻ごと弾け飛んだ。
その中から四本足の影が飛び出した。
ノクスが着地した。
毛が全部逆立って、尾が膨らんでいる。
金色の目が、私を見た。
「ふん、間に合ったか。お前、また一人で全部背負おうとしていたな」
喉の奥で組み上げかけていた封印術の音節が、ほろりと崩れた。
「礼はいらぬ」
頭の奥を満たしていた神の気配が、潮が引くように遠のいた。
ノクスが私の足元に滑り込んできた。体を私の脛に押し当てて、尾を一度振った。
これで、私の力をノクスの加護として見せられる。
右手でノクスを抱き上げて、肩に乗せた。古い言語を、唇だけで紡ぎ始める。
ノクスの口が同時に動いて、声を真似た。
表向きは「使い魔の咆哮」
実体は、私の魔法。
男が、振り返った。
「その詠唱、まさか」
目が大きく開いた。記憶の底から、何かが浮かび上がる顔だった。
「お前、まさか、あの使徒か」
男が両手を上げた。袖口から、黒い光が噴き出した。
空気が歪んで、男の頭上に、巨大な影の球が生まれた。古代の根源魔法。
私の時代の術式。男もまた、超古代の知識を継いでいた。男の影球が、こちらに放たれた。
空気を裂きながら浮き島の床を焼いて、私の正面に迫る。同時に、私の右手から白い光の鎖が幾本も伸び上がり、影球を絡め取った。
鎖が影球を縛り、引き絞り、押し戻していく。男の顔から血の気が引いた。
二つがぶつかり合った圧力で浮き島が揺れた。鎖が軋み、装甲機械の残骸が転がる。
空気が歪んで、視界の縁が白く飛んだ。最後の音節を、声に出した。
「還れ」
白い鎖が一気に収縮した。影球を、男の体ごと縛り上げ、浮き島の中央の床。五千年前に私が刻んだ封印の陣の上へ引きずり込んだ。
「お前のような者が、なぜ今」
最後の言葉が、男の喉で切れた。影が閉じた。
男の体は封印の陣の中に呑まれて、消えた。
残ったのは、影が床に焼き付けた黒い円と、その中央に、黒い球が一つ。
表面が硝子の貝のように堅く張って、男ごと閉じ込めている。
―――上層の浮き島の縁を、ふと見上げた。
煙草の煙が、薄く残っている。赤い瞳が、こちらを一度だけ見下ろした。
口の端だけで笑って、消えた。
シャルロットが息を切らしながら、機械の最後の一脚を双剣で切断した。
脚が根元から折れて、火花が散った。三脚を失った機械が、ゆっくり横倒しになる。
床に激突して、装甲板が散らばった。
胴体の球形が一度だけ唸って、術式刻印の青白い光が、根元から消えた。
動きが止まった。
静寂が、浮き島の上に落ちた。
はっと振り返った。カイルが倒れている。
ミナも倒れている。両方から、血が流れている。
籠の昇降の重い軋みが、ようやく止んだ。
最上層の階段の縁に、フィオレが駆け上がってきた。
煎じ終えたばかりの薬の壺を両手で抱えて、湯気が空気に揺れている。息が乱れている。
それでも兎耳をぴんと立てて、こちらの指示を待っている。
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