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第83話 五千年前の匂い

 最上層の浮き島に足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わった。風が止んでいる。下層から吹き上げていた谷底の冷気が、ここには届かない。


 代わりに、古い魔力の残滓が肌を撫でていた。私の詠唱と同じ匂いがする。



 五千年前の、私の。



 浮き島の中央に祭壇があった。六角形の台座に、六本の細い石柱が立ち並んでいる。石柱の頂点を繋ぐように、光の糸が空中に浮かんでいた。


 祭壇の中心には魔法陣。古いものの上に、新しい術式が書き足されている。インクの色が違う。


 祭壇の前に、黒ローブの男が立っていた。長身。フードは被っていない。


 額から顎にかけて、蛇が尾を呑む紋章の刺青が走っている。結社の徽章と同じ意匠だった。四十代半ば、痩せた体躯に似合わない重い気配を纏っている。


 男の背後に、三本の脚で床を踏む巨大な機械が蹲っていた。


 高さは天井に迫る。三本の脚はそれぞれが私の腰ほどの太さで、関節部に古代の刻印が刻まれている。


 胴体は球形、表面に装甲板が鱗のように重なっていた。頂部から三本の触腕が垂れ下がり、先端が鋭く光っている。


 結社が再現した古代兵器。


 設計図の断片を私は知っている、五千年前に、封じたはずの。



「来たか」



 男が振り返った。薄い唇が弧を描く。



「我らが導師マヌエル様が、この塔の核を求めておられる」



 カイルが剣を抜いた。フレイムソードの刃が橙色に明滅する。



「神の支配からこの世界を解放するために」



「神の支配だと?」



 カイルの声が低く響いた。


 黒ローブの男が一歩、祭壇に近づいた。指先が魔法陣の縁をなぞる。



「神とは、お前たちが信じているような慈悲深いものではない。あれは。人類を選別する檻だ」



 ―――あの方を、檻と呼ぶな



 言葉を飲み込んだ。


 神は檻ではない。


 前世の私を見て嘆いた方だ。


 何も知らないくせに、軽々しく語るな。


 祭壇の中央で、光が揺れた。魔法陣の中心から淡い光が立ち上がり、九つの紋章のうちたった一つだけが、床の石に浮かび上がった。


 円の中に刻まれた手のひらの意匠。一番目の手の印。


 カイルが膝をついて、床の紋章を覗き込んだ。



「これ、何の印だ」


「九使徒の、一つ。一番目の手の印」



 カイルの目が私に戻った。



「九使徒。侍従長が言ってた、結社が信じる古い神話の」



「神話じゃない」



 私の声が硬かった。



「実在した。この印がここにあるのが、その証拠」



 ミナが息を呑んだ。トールの盾を握る手が白くなっている。



「リーラ姐さん、なんでそれを」


「家の書庫の古文書で読んだの。母様の蔵書に紛れていて」



 嘘だった。



 私がこの陣を刻んだ。


 五千年前に。


 だが今は。この答えで十分だった。


 祭壇に近づいた。核の石に、指先を触れた。



 ――神の声が、頭の中に落ちてきた。



「リーラ、ここはお前が封じた場所だ。封印を破らせるな」



 呼吸が止まった。神の声が、それきり消えた。



(――はい、神様)



 胸の奥が、ふっと温かくなった。神様も気にかけてくださっている。私一人ではない。


 ノクスが尾でふくらはぎを一度叩いた。聞いたか、と確認する合図だった。


 小さく頷いた。


 男が笑っていた。



「お前のような古い存在は、まず邪魔だ」



 黒ローブの袖口から古代の封印札が飛んだ。


 黄ばんだ紙片に刻まれた文字列が空中で展開し、ノクスの体を包んだ。


 影の檻。黒い壁がノクスの周囲に立ち上がり、回転しながら収縮していく。



「ノクス!」



 叫んで手を伸ばしたが、届かない。ノクスの金色の目が一瞬だけこちらを見た。


 口が動いた「リーラ、俺なしで・・・」



 言葉が途切れた。



 影の檻が一気に収縮し、ノクスの輪郭ごと圧し潰すように黒い球へと凝り固まった。表面が硝子の貝のように堅く張り、内側の動きを完全に封じ込めた。



―――ノクスがいない。これでは、何を詠唱してもバレてしまう!



 男が腕を上げた。三脚型の機械が唸りを上げて起動した。胴体の球形装甲の継ぎ目から、青白い光の筋が走った。


 古代の起動術式。私が知っている形。けれど、これは私が組んだ式ではない。


 誰かが模倣し、組み直し、目覚めさせた式。継ぎ目の繋ぎ方が雑だった。雑だからこそ、止め方が分からない。


 三本の脚が床を踏んだ。一本一本が、私の腰ほどの太さ。脚の関節部から、紫の蒸気が噴き出した。


 胴体頂部の三本の触腕が、生き物のようにゆっくりと持ち上がる。先端が獣の爪のように尖り、銅と黒鉄の縞模様が光を吸う。


 空気が重くなった。ミナとシャルロットは祭壇の左右に散って、男の退路を塞ぐ形で立っていた。カイルが半歩足を引き、剣を握り直す指が一度白くなって、それでも前に出た。



「トール、来い。盾共鳴を試す」


「あいよ、カイルさん!」



 トールが盾を構え直して、カイルの斜め後ろに半歩ずれて立った。盾の真ん中が、カイルの剣の延長線上にぴたりと重なる位置。先日ドルク鍛冶屋で渡した盾共鳴の図解のとおり。


 カイルがフレイムソードを正眼に構えた。息を吸った。吐いた。


 刃の橙が、根元から先端へ向かって走った。鞘から抜いた時の二倍の輝度。


 光の波が剣身を伝って先端まで届いた瞬間――



「焔閃」



 刃から橙色の炎が噴いた。同時に、トールが盾を一歩前に押し出した。


 盾の表面にカイルの炎が触れた瞬間、空気が唸った。



 共鳴が起きた。



 橙の弧が二重になった。剣から放たれた炎が、盾の面に当たって反射し、もう一度カイルの斬撃に重なった。


 干渉縞が空中に走り、橙の波が二重の螺旋を描く。


 通常の二倍の幅を持つ炎の刃が、機械の正面装甲に叩きつけられた。



 装甲が、軋んだ。



 球形の表面に、白い火花が走った。鱗状の装甲板が一枚、根元から剥がれて、橙の縁を引きながら床に落ちた。


 次の一枚、また一枚。三枚目までは剥がれた。だが、四枚目で止まった。


 装甲が厚すぎた。古代の合金は、現代の魔導鋼とは別物だった。


 剥がれた装甲の下から、もう一層、暗い金属が露出した。表面に走る術式刻印が、痛みを感じたかのように青白く脈打った。


 トールの盾に、一筋の亀裂が走った。



「くっ――」



 盾が弾かれた。トールの体ごと後ろへ飛んだ。



 二歩、三歩、よろけて、浮き島の縁が、すぐ後ろにあった。



 最上層、地上から二千メートル。トールの片足が、縁を踏み外した。体が半身、空中に投げ出された。霧の谷が、足の下で渦を巻いていた。



「トールっ――!」



 ミナだった。



 最上層の端で、ミナがトールに向かって駆けた。腰の双短剣が鞘の中で揺れて、ローブの裾が翻った。


 浮き島の縁ぎりぎりで、ミナの片手がトールの手首を掴んだ。もう片手で、ミナは浮き島の縁の朽ちた石柱の根元を握った。


 体重で引き戻す。トールの体が、宙から浮き島の上に転がり込んだ。


 二人とも、息を切らしていた。



「バ、バカっ、何やってんのよ! あの高さで、もし間に合わなかったらっ」



 ミナの目に涙が滲んでいた。トールの胸ぐらを掴んで揺さぶる手が、震えていた。



「あんた、あたしを置いていく気?」



 声が、最後で割れた。トールが固まった。


 盾を握っていた手をゆっくり下ろして、震えるミナの腕に、そっと添えた。離さなかった。耳の先まで赤い。



「ミナさん、すんません。置いて、いかねえっす。絶対」



 トールがミナの腕を引いて、縁から二歩ほど中央寄りに連れ戻した。


お読みいただき、ありがとうございました。

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