第80話 空飛ぶ城
ガーレンが手綱を握る馬車が、別邸を発ったのは昼前だった。街道は乾いていた。ヴィルヌアを抜けて西に半日、霧の谷の縁を目指す。
車内の空気は重かった。シャルロットが双剣の柄を磨き、カイルは地図を膝に広げて経路を確認していた。ミナはトールの盾に走った傷を撫でて、トールは末妹ハナにもらったというお守りを胸ポケットに収め直していた。
午後の早い時間に、霧の手前で空気が変わった。湿気が増し、馬の足音が地面に吸い込まれるようになった。
馬車が霧の谷の縁で止まった。ガーレンが手綱を引いた。隣の御者台に座っていたフィオレが、白い兎耳を真上に立てていた。風が吹いていないのに、耳の先端が小刻みに震えている。
ミナが馬車から顔を出した。
「フィオレちゃん、その耳、すごい便利ね」
「南方の里では、皆こうして畑を守っていました」
フィオレが答える声が、ほんの一瞬、遠くを見るような響きになった。すぐに戻った。
「お嬢様」
声が、いつもより一段低かった。
「上から、金属の擦れる音が。それと、何かの羽ばたき。大きいです。鳥ではありません」
馬車を降りた。谷の縁に立って、見上げた。白い霧が、底のない谷から立ち上っていた。
その霧の中に鎖が見えた。
古い鉄の鎖が、複数の浮き島を繋いでいる。一番低い浮き島でも頭上五十メートルはある。最上層は霧に半分呑まれて、頭上二百メートルの空に溶けていた。
螺旋に連なる石の構造体。レガリア期の建築様式。いや、それよりも古い。
―――天枝の塔
胸の奥で、何かが軋んだ。覚えている。この場所を。五千年前の手で、この塔の核に封印を施した。何を封じたのか、今の体では断片しか浮かばない。
ただ「封印した」という行為の重さだけが、骨の髄に染みている。
ミナが馬車の幌から、さらに身を乗り出した。
「嘘でしょ。あれ、浮いてるの?」
トールが盾を背負い直しながら横に並んだ。
「空飛ぶ城っすか。絵本で見た」
カイルが剣帯を締め直して、谷の縁から一歩引いた位置に立った。霧の奥を見据える目が細まっている。
「昇降装置がある」
谷の縁。岩に埋め込まれた古代の石柱。その根元に、人二人がぎりぎり入れる籠が鎖で吊り下がっていた。籠の床に刻まれた術式紋が、薄く青い光を放っている。
ノクスが肩の上で前足を組み直した。尾が一度だけ揺れた。
「動くのか、あれ」
「動く。術式が生きてる」
籠の縁に手を置いた。石が冷たかった。術式の配列を指先でなぞる。五千年前に自分が組んだ式ではない。
だが同じ時代の、同じ系統の術師が組んだもの。指の記憶が、それを知っていた。
「乗って。四人ずつ」
フィオレが最後尾で立ち止まっていた。両手で薬草袋の紐を握り直して、白い兎耳が一度だけ揺れた。
籠は古代術式の青い光を放っていて、下を覗けば五十メートル下の霧の谷。怖くないわけがない。
振り返って、フィオレに頷いた。
「フィオレは最後の籠で。私も一緒に乗るから、大丈夫」
フィオレの耳が、ぴんと立った。怯えが消えた。覚悟を決めた目だった。
「はい、お嬢様」
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