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第77話 「お供させてください」

 副木の左腕が、寝返りのたびに軋んだ。目を開けると、天井の木目が朝陽に白く染まっていた。


 ヴェイン家別邸。母の旧研究小屋を改装した、石壁に蔦の絡まる二階建て。窓の外で鳥が鳴いている。


 ノクスが枕元で丸くなっていた。金色の目が半分だけ開いて、こちらを見ている。


 左腕を持ち上げてみた。副木の隙間から指を動かす。関節が軋むが、痛みは鈍い。



「ノクス、骨が繋がりかけてる」



「一週間か」


「もうちょっとかかるかな。十日くらい」



 ノクスが鼻を一度鳴らした。



「焦るな」


「焦ってないわよ」


「焦ってる。お前、いつもそうだ」



 返す言葉がなかった。



 骨が繋がるまでは、この不格好な木枠と包帯を巻いたまま戦うしかない。


 階下から陶器が重なる音がして、軽い足音が続いた。階段の手前で、白い兎耳がぴこぴこと動く気配がした。


 フィオレが盆を持って現れた。湯気の立つスープ、硬いパン、干した果実。盆の端に小さな花瓶が一つ、庭の野花が挿してある。



「お嬢様、おはようございます。今朝は南の畑で摘んだカモミールを浮かべてあります」


「ありがとう、フィオレ」



 盆を受け取る手が右しか使えない。フィオレが黙って枕元の台に盆を置いて、椅子を引いてくれた。


 兎耳がわずかに前に傾く。気遣いの耳だ。


 スープを一口飲んだ。母が南方の港町から連れ帰ったこの兎人の子は、料理も薬草も庭も、いつの間にか別邸のすべてを支えている。温かさが喉を通って、肩の力が抜けた。



「フィオレ、今日は留守の間、よろしく」



 フィオレが俯いて、しばらく薬草袋の紐をいじっていた。指先が、迷うように紐の結び目を行ったり来たりしている。それでも、目を上げた。



「お嬢様。今日は、お供させてください」



 声が、いつもより少し低かった。



「森の中なら、耳と鼻で先導できます。お役に立てます」



 手が伸びかけて止まり、指先が私の副木の縁に触れたかと思うとすぐに引っ込んだ。



「お嬢様がお怪我をされているのに、私だけここにいるなんて」


「お世話、させてください」



 胸の奥が、ゆっくりと動いた。


 フィオレが「お供したい」と願い出るのは、初めてだった。


 母が連れ帰ってから今まで、別邸の中だけで生きてきた子だ。外を怖がって、別邸の敷地から一歩も出なかった子だ。


 母が連れて来た時、この子は既に何かを失っていた。何を、と訊いたことはない。フィオレが話したくない過去なら、私はそれを尊重したかった。


 ノクスが枕元から顔を上げた。尾が一度だけ揺れて、何も言わなかった。


 手を伸ばした。フィオレの兎耳に触れた。柔らかい産毛が指の腹を通った。



「フィオレ。あなたを連れて行きたくない理由は、一つだけ。怖いの。あなたが傷つくのが」



 フィオレの肩が小さく揺れた。言葉はなく、短く息を呑んだ。



「でも、左手がこれだから、正直助かる。あなたがいてくれたら心強い」



 本音だった。でもそれだけじゃない。この子が、私のために外に出ると言ってくれた。それが、たまらなく愛おしかった。



「はい」



 即答だった。耳が、ぴんと上を向いた。さっきまでの不安が嘘のように。


 盆の隅に、小さな封書が寄せてあった。父様の筆跡。開くと、薬草の処方の覚え書きの裏に、母様の細い文字が三行。



 > ノエルが薬草園で兎を追いかけて転びました。

 > 乳歯が一本、抜けたそうです。

 > あなたの帰りを、毎晩、毎晩、窓辺で待っています。



 胸の奥がきゅうっとなった。会いたい。でも、結社を潰すまでは会えない。


 階下の扉が開く音がした。革靴が石床を踏む、静かで確かな足音。カイルが階段の手前で止まった。


 傷も完全に塞がっている。昨夜の治癒術が、ちゃんと効いていた。


 金色の短い髪と、青みがかった灰色の瞳。朝の光の中で見ると、いつもより顔色がいい。その後ろから、トールとミナが並んで廊下を歩いてくるのが見えた。



「起きてたか」


「うん。今朝は早く起きたの」



 副木のない方の手で、寝癖を押さえた。なんで今それを気にしたのか、自分でも分からなかった。



「シャルロットが双剣の手入れ中だ。ガーレンも馬車の準備を済ませてる」



 カイルが腰の剣帯を直しながら、視線を一瞬だけ私の副木に落とした。何も言わなかった。



「おはようっす、リーラさん!」



 トールの声が別邸の石壁に反響した。フィオレの兎耳が、毛の先まで一斉に逆立った。私も右手を上げた。



「おはよう、二人とも」


「おはよう、姐さん」



 ミナの心配そうな目が一瞬だけ私の副木をかすめた。すぐに戻って、私の顔とカイルを交互に見て、にやっと笑って、一人で頷いた。



 ――何に納得したの。



 朝食を食べ終えて、出かける支度を整えた。まずはドルク鍛冶屋に新しい盾共鳴の図解を届けてから、別邸に戻って今日の作戦を詰める段取りだった。


 玄関に降りると、カイルが外套の前を留めていた。フードは被っていない。街では、ただの冒険者カイルで通る。


 ガーレンの馬車に、全員で乗り込んだ。車輪が回り出し、別邸の門が後ろへ遠ざかる。中層へ続く坂道を、馬車が下っていった。


お読みいただき、ありがとうございました。

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