第7話 今度は、私が守る
旧市街の細い通りに、人影があった。壁際に立っている。フードを目深に被っている。荷も連れもない。一人で、下層の路地に。
すれ違いざまに視線を感じた。フードの奥は暗くて顔が見えなかった。何でもない旅人のはずだった。
だが空気が一瞬だけ揺れた。この世界の魔法ではなかった。もっと古くて、もっと深い。
息が、浅くなった。あの塔で最後に迎え撃ったものと同じ手触りの魔力が、微かに混じっていた。
振り返った時には、もう姿はなかった。ノクスが足元で耳を伏せた。
「今の」
「わかってる」
カイルも剣の柄に手を触れかけて、すぐ外した。魔力は嗅ぎ分けられないはずなのに、空気の歪みだけは拾っている。
歩調を変えずに中層への階段まで来た時、路地の角でフードの影がもう一度動いて、壁の奥へ消えた。
その瞬間、石畳が震えた。ノクスの全身の毛が逆立ち、耳が完全に伏せられた。
私の足裏に重く深い振動が走る。石畳が隆起して、敷石が弾け飛んだ。
四つの脚と二つの頭を持つ獣が石を裂いて這い出てきた。肩までの高さが私の背丈ほどあり、毛並みが黒く目が六つ、全てが赤く光っている。口から紫の霧が漏れていた。
ノクスの体が硬直し、私も足が止まった。さっきの甲虫と同じ気配。この世界のものではない何かが薄く混じっている。
カイルの剣が鞘を鳴らした。
「下がってろ」
振り返りもせず、背中で私とノクスを庇う位置に立った。一人で。獣の前に。
カイルが踏み込んだ。速かった。首の根元を狙った無駄のない一撃が走る。
だが硬い。剣が毛皮に弾かれ、二つ目の頭が横から噛みついてきた。
牙が右腕をかすって篭手が裂け、立て直す間に脇腹へ牙が入る。カイルの膝が折れて、剣を握ったまま体が傾いた。
まずい。
私が唇を動かした。声にならない詠唱で二つ目の頭を弾いた。獣がよろめいて、一瞬の間ができた。
カイルが立ち上がった。脇腹を押さえたまま、剣を構え直す。
「逃げろ。お前だけでも」
私に向かって言った。
血が靴の先に垂れて膝が震えている。それでも剣を下ろさなかった。
魔獣の二つの頭が同時にカイルを見た。カイルが踏み出した。
――やめろ
私の口が開いた。声が出なかった。詠唱が間に合わない。
カイルの背中が遠ざかる。脇腹から血を流したまま、足を引きずるように。
カイルの剣が振り下ろされた。一つ目の頭に届いたが、浅い。硬い毛皮に弾かれた隙に二つ目の頭がカイルの胴を咥えて振った。
体が弧を描いて旧市街の石壁に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
魔獣が低く唸った。二つの頭がゆっくりと動いて、倒れたカイルを見下ろしている。足は進まず、獲物の息が止まるのを味わうような呼吸。
視界が白くなった。
走ってカイルの側に膝をつく。
血が、多すぎた。
脇腹の傷口が開いて、咥えられた胸元にも牙の跡が深く裂けている。
カイルの目が薄く開いた。焦点が合わないまま口が動いた。
「お前は大丈夫、か」
怒っているような顔だった。体の底で、何かが轟いた。理由はわからなかった。
爪が手のひらに食い込んでいた。止められなかった。
カイルの目が閉じた。
一瞬、カイルの顔にフィンの顔が重なった。目を閉じた瞬間の、あの顔と。
――また、か
五千年越しの何かが、体の底でゆっくり首をもたげた。
魔獣が吠えた。二つの頭が同時に。地面が震えて、空気が紫に染まった。
私は立ち上がった。
――消されてもいい
記憶も、力も、全部
弱い人間が先に死ぬのはおかしい。強い者が守ればいい。
フィンの時は間に合わなかった。同じことを二度、繰り返すつもりはない。
――今度は、私が守る。
振り返った。魔獣が突進してくる。二つの頭、六つの赤い目、紫の霧。
詠唱した。声が喉から溢れた。抑えなかった。
古い言語が旧市街の石壁に反響して、高く、遠く、響いた。
短い一節。たった二つの言葉だけ。それで十分だった。
黒紫の光がまっすぐ魔獣を貫いた。二つの頭が同時に燃え上がり、悲鳴は一瞬で途切れて、体の芯から崩壊するように内側に折れた。
光は魔獣を抜けて、そのまま通りの奥へ走った。旧市街の広場の端に立っていた古い大樹が、一瞬で燃え尽きた。灰だけが残った。
白い灰が、音もなく降り始めた。旧市街の石畳に、双頭の魔獣だったものが横たわっている。
体は黒く焦げて二回りほど縮み、四本の角だけが無傷のまま残っている。赤黒い先端が微かに紫に光っていた。
焼け残った腹の皮膚に、薄く赤い線が浮かんでいた。甲虫と同じ幾何文様。だがこちらは、もっと複雑な四重円。
下層にこんな個体は出ない。誰かが、ここに送り込んだ。
振り返ると、カイルが倒れていた。カイルの側に崩れ落ちた。頭を膝に乗せた。
血と、動かない体と、冷たくなっていく手。カイルの手を掴んで自分の頬に押し当てた。
冷たかった。
回復の術式を口にした。前世で何百回と唱えた呪文。傷を治し、血を止め、骨を繋ぐ。
声が裏返った。もう一度。
古い言語が喉を焼いた。光がカイルの体を包んだ。
灰が光の中を舞っていた。もう一度。
涙が落ちて、カイルの頬に積もった灰を崩した。視界が歪んでカイルの顔が滲み、何も見えなくなった。
それでも唱え続けた。声が枯れても、喉が焼けても。
灰だけが降り続けていた。
もう誰も死なせない。この人は死なせない。何が起きても。全部失っても。
「やめろ」
ノクスの声が飛んだ。
「やめろ、リーラ! 回復してる! 傷は閉じてる! もうやめろ!」
私の声が止まった。
涙を腕で乱暴に拭った。視界が戻ると、手の下でカイルの傷口が塞がっていた。胸が浅く、でも確かに動いている。
フィンの時は間に合わなかった。傷が深すぎた。回復が壊れる速度に追いつけなかった。
今度は。間に合った。
嗚咽が出た。止まらなかった。
声の形にならないものが喉から溢れた。カイルの胸に顔を埋めると、心臓の音が聞こえた。弱いけれど、確かに動いている。
――フィン。
ごめんなさい。あなたの時は、間に合わなかった。
カイルの胸に額を押しつけたまま、泣いた。声を殺せなかった。フィンは帰ってこない。それは変わらない。
でも、この心臓は、動いている。
ノクスが隣に来た。小さな体を私の膝に押しつけて、丸くなった。鈴が鳴った。何も言わなかった。
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