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第6話 「お前も、誰かを守れなかったのか」

 商隊が上層の大商会に着いて荷を下ろすと、御者たちが礼を言いながら報酬を渡した。猫に。


 ノクスの前に銀貨の袋が置かれた。ノクスは無表情でそれを見て、前足で袋の端を押さえ、私に目だけを向けた。



「さっきのはビビったぞ、後で三倍寄越せ」


「三倍は無理。報酬の中から出してるんだから」


「二倍」


「一・五倍の餌なら」


「二倍」



 ノクスの目が細くなった。


 交渉の余地はないという目だった。



「二・五倍まで。それ以上は体重に響く」



 ノクスの尾が一度だけ揺れた。妥結の尾だ。



「あ、ありがとうございました。ノクスも喜んで」


「喜んでないが」



 笑いそうになって、口元を手で隠した。


 帰り道は荷馬車がない分、足が軽かった。上層から中層へ戻る途中、境界通路が商隊で塞がっていた。


 迂回するしかない。



「下層を抜ける」



 カイルが言った。



「旧市街を通れば中層のギルドまで近い。ただ、この時間帯は薄暗い」



 下層の旧市街。石畳が古く、街灯が一本おきにしかない区画だ。


 壁に記憶商人の看板がぶら下がっている場所。衛兵の見回りもほとんど入らない。



「大丈夫です。ノクスが」



 カイルが私を見て、ノクスを見た。



「行くか」



 下層に降りた。


 空気が変わった。上層の陽光が嘘のように、石壁に囲まれた狭い通りは薄暗く湿っている。


 天井が近い。上層と中層の建物の底がそのまま下層の天蓋になっていて光が差し込まない。


 ノクスが私の足元を歩き、尾が地面すれすれで揺れていた。


 カイルが隣で剣の柄に手を置いて、時折、壁の隙間に目をやっている。


 カイルが半歩前に出て、路地の奥側を歩いていた。



「お前、この辺りはよく通るのか」


「いいえ。下層は、あまり」


「そうか。一人で来るな」



 ノクスの耳が伏せかけた。


 一人で来るな、と言われる筋合いはない、と言いたげだった。しばらく無言が続いた。


 石畳を踏む足音だけが、二人の間に響いていた。


 壁の隅に小さな(ほこら)があった。苔むして供え物の皿が割れている。


 カイルが足を止めて腰の革袋から干し肉を一切れ出し、割れた皿の横に置いた。



「何してるんですか」


「街道の(ほこら)には供えろって、師匠に言われた。守ってくれるかどうかは知らん。でも腹が空いてるかもしれないだろ」



 下層の薄暗い隅で祠に供え物をする冒険者を、私は十八年で初めて見た。


 カイルが歩き始めた。


 旧市街の壁に貼られた看板が目に入った。



 「記憶、買います」、その横に「武具修繕承ります」。文字がかすれて読みにくく、下層の空気は重く湿っていた。


「カイルさんは、なぜ一人なんですか」


「一人の方が、楽ですか」


「楽じゃない。でも誰かと組んで、そいつが死ぬのを見るよりはいい」



 カイルの手が剣の柄に触れていた。


 さっきも触れていた傷の一つに、指が止まっている。



「この傷は」


「ロンド師匠がつけた。俺が十五の時だ。手入れの途中で剣を放り出して遊びに行こうとしたら、師匠が無言で自分の剣を抜いた。俺の剣の柄を、峰で一発叩いた」



 カイルの指が柄の傷をなぞった。



「殴られるかと思って身構えたら、殴らなかった。『この傷を見ろ。お前が粗末にした分だけ、剣に残る。剣はお前の命だ。傷がついたら、お前が死ぬと思え』って」



 口の端が少し動いた。


 師匠を懐かしむように笑いかけて、途中でやめた顔だった。



「いい師匠ですね」


「厳しかった。でも、俺が怪我した夜は、自分は寝ずに薬を煎じてた。朝起きたら枕元に湯気の立つ椀があった」



 私は黙って聞いていた。



「師匠のところに転がり込んだのが三年前だ。もっと強くならなきゃいけない理由があって」



 言葉が途切れた。


 カイルの目が一瞬だけ泳いで、すぐに戻った。



「それまで俺は、別の場所にいた」


「師匠と山で修行してた時に、魔物の群れに出くわした。大型が二匹と、小型が十匹以上。俺は師匠の後ろで剣を構えるだけで精一杯だった」



 カイルの声が少し低くなった。



「小型を三匹斬ったところで、大型が横から突っ込んできた。俺が前に出ようとしたら、師匠が肩を掴んで後ろに引っ張った。『前に出るな、馬鹿』って。そのまま師匠が大型の前に立った」



 カイルが前を向いた。


 下層の薄暗い光が頬を横切った。



「大型の一匹は仕留めた。でも二匹目の牙が師匠の脇腹に入った。地面に倒れて、俺を見上げて『弱い奴が先に死ぬのはおかしい。強い奴が守ればいいだけだろ』って。血を吐きながら、笑ってたんだ」



 私の足が止まった。弱い奴が先に死ぬのはおかしい。



 強い奴が守ればいい。



 ――前世で、同じことを思った。


 同じ言葉を、灰が降る中で。視界が一瞬滲んだ。


 横を向いて奥歯を噛み、指先で目尻を一度だけ拭った。


 カイルの足音が止まった。


 が、しばらく何も言わなかった。気づかない振りをしてくれた、のかもしれない。


 少し間を置いてから、



「師匠の話で泣く奴は初めて見た」



 独り言のような声だった。咎める調子はなかった。



「すみません。師匠の話じゃなくて」



 言葉が勝手に出て、止められなかった。



「大事な人を守れなかった話を聞くと、昔のことを思い出してしまって」



 カイルは振り返らないまま、静かに尋ねた。



「お前も、誰かを守れなかったのか」



 喉が詰まって答えられなかった。


 答えたら全部崩れる気がした。



「昔の話です」



 カイルはしばらく黙っていた。それから、低い声で言った。



「謝ることじゃない。俺も、同じだから」



 そのまま歩き始めた。


 半歩前を歩く速度がほんの少しだけ落ちて、耳の先がわずかに赤かった。


 ノクスが足元で尾を私の足首に巻きつけた。


 何も言わなかった。

お読みいただき、ありがとうございました。

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