第5話 「あれ、倒したの誰?」
「最近、物騒だろう。王都から南へ向かう隊商が、三つ続けて襲われたって話だ」
最後尾の荷馬車の横を歩いていると、御者の初老の男が話しかけてきた。中層の市場は、朝から怒鳴り声と香辛料の匂いで溢れている。
「うちもこの街の外に出るのは、護衛なしじゃ怖くてな。まあ、ノクス様がいるから、心配はしてないがね」
男が顎で先頭を指した。誰に言われたわけでもなく一番前に立ったカイルが、剣の柄に手を添えたまま、視線を通りの左右へ走らせている。
「あの剣士も、真面目だ」
「はい」
荷馬車は三台。先頭と最後尾に、馬より一回り大きいシャルートが繋がれている。額の結晶角が朝日を弾いて、淡い金の毛並みが光っていた。
ここはヴィルヌア。私が生まれ育った、ヴェイン侯爵家の街だ。王都までは魔石列車で半日。北辺の交易路がきな臭くなれば、真っ先に荷が止まる。
その通り、上層ゲートの通関で商隊は足止めを食っていた。荷の検査が厳しい。
待っている間に、カイルが屋台に歩いていった。戻ってきた時、串焼きを二本持っていた。
「食うか」
「え」
両手で受け取った。串焼きを路上で食べた経験がない。礼法書にも侯爵家の食事作法にも、串焼き肉の項目は存在しなかった。
カイルは自分の串をもう半分かじっていた。歩きながら、片手で、何の躊躇いもなく。
真似をして一口かじると、香辛料の熱が舌を襲った。脂が指に垂れた。
慌てて袖で、いや、袖は駄目だ。
拭くものがない。
「垂れるぞ。傾けろ」
カイルが自分の串を見せた。手首の角度を変えて、脂が串を伝って下に落ちるようにしている。手慣れた動きだった。
言われた通りに傾けた。垂れなくなった。
幌の縁からノクスが顔を出していた。金色の目が細まっている。
「お前、食い方が上品すぎるんだよ」
「黙って」
二口目は、さっきより上手にかじれた。香辛料の奥に肉の甘みがある。屋台の串焼きがこんなに美味しいとは知らなかった。
「このまま待ってたら日が暮れる。裏を回ろう」
カイルが御者の方を向いた。
「境界通路だ。上層ゲートの東側に古い坂道がある。荷馬車もぎりぎり通れる。ゲートを通らずに外周へ出られる」
私は知っていた。層と層をつなぐ古い石造りの通路。正規の街道ではない。巡回が手薄で魔物が出やすい。
商隊が列を離れ、東の細い路地に入っていく。
境界通路に入った瞬間、空気が変わった。天井が低い。壁が古い石造りで、苔と湿気が張り付いている。
松明の光が揺れて、荷馬車の幌に歪んだ影を落としていた。
シャルートの結晶角が暗闇の中でぼんやり光り、御者がその光を頼りに手綱を操っている。荷馬車がぎりぎり通れる幅だった。
壁が震えた。黒い甲殻が石壁の隙間から突き破って現れた。六本脚に鎧のような外殻、頭部に二本の角。甲虫型の魔物が三匹、壁から剥がれ落ちるように這い出してきた。
三匹が同時に、均等な間隔で、野生の群れがやる動きではなかった。
「ひっ……ま、魔物だッ! 誰か、助けてくれ――!」
御者の悲鳴に、シャルートが首を振って低く鳴いた。先頭のカイルが剣を抜いた。
速かった。最も近い一匹の、外殻の継ぎ目――首と胴の隙間に、カイルの剣が滑り込む。
「キシャアアアッ――!」
金切り声を上げて、六本の脚が折れるように崩れた。
甲虫型の外殻は硬い。継ぎ目を初見で狙えるのは、相当な数を斬ってきた証拠だ。
残りは、二匹。
私は唇だけで、短く詠唱した。声にならないほど小さな、古い言語を。
幌の上で、ノクスが立ち上がる。前足を一歩。金色の目が開いて、瞳孔の奥が一瞬だけ紫に揺れた。誰も気づかない。
次の瞬間、空気が燃えた。
黒紫の炎が二匹を同時に飲み込む。熱せられた空気が一気に膨らんで、通路に風が起こった。松明の火が薙ぎ倒され、幌が大きくはためく。
「キシャアアッ――!」
「ギシャアッ……!」
二匹の金切り声が重なり、外殻の砕ける音とともに、小さな爆発が弾けた。六本脚の残骸が石畳に転がる。
風が、やむ。炎は一瞬で消えて、幌にも壁にも、焦げ跡ひとつない。
「ノクス様がやった!」
御者が叫んだ。
二台目の御者も三台目の御者も、幌の上の黒猫を見上げている。カイルが一匹斬ったことは、誰の口からも出なかった。
ノクスは前足を下ろして、欠伸をした。仕事は終わったと言わんばかりに。
私は拍手の外側に立っていた。いつも通りだ。私の魔法が、黒猫の手柄になる。
十八年、ずっとそうだった。感謝されるのはノクスで、私は猫の助手。
それでいい。力を隠すと決めたのは私だ。ノクスが胸を張るたびに、少し笑いそうになる。
「ノクス殿、すごいな」
カイルが剣を下ろしながら言った。ノクスの尾が優雅に揺れた。
唇を噛んだ。笑いを堪えるのに必死だった。
壁が、もう一度震えた。
甲虫の残骸の奥。天井近くの亀裂から、二回りは大きい影が落ちてくる。外殻は黒ではなく、赤い。角が四本。
親だ。子を焼かれて、出てきた。
「グ、ガアアアアッ――!」
赤い甲虫が咆哮した。御者が腰を抜かす。誰も、私の唇を見ていない。
古い言語を、ひとこと。
黒紫の光が、赤い甲虫を貫いた。
「ギ、ギシャアアアアアッ――――ッ!!」
断末魔が通路を裂く。
――爆発。
通路全体が、昼のように白く灼けた。轟音が壁に反響して、耳をつんざく。中身が蒸発して、四本の角だけが、石畳に深々と突き刺さった。
御者たちが振り返った。カイルも。
幌の上では爆発音に驚いたノクスが真上に跳んだ直後だった。
天井が低い通路では逃げる場所もなく、天井に頭をぶつけて着地に失敗し、幌の端から滑り落ちかけて爪を立てて必死にしがみついている。
「ギャアッ」
前足を交互に踏ん張り、後ろ足で蹴り上げて、ずり上がるように幌の上に這い戻った。背中の毛が全部逆立って体が倍に膨らみ、尾の先端が小刻みに震えている。
ノクスが私を見た。
金色の目が「何をした」と言っていた。
だがすぐに察した。十八年の相棒だ。毛を舐めて整え始めた。
逆立った背中の毛を一舐め、二舐め。尾はまだ膨らんでいて、体の下に隠そうとしても隠れない。
「猫様がもう一匹やったぞ!」
「見たか今の光ッ! 親玉まで一撃だぞ!」
「さすがノクス様だ……いや、Aランクなんてレベルじゃねえ」
「ノクス様ァ! あっしは一生ついていきますッ!」
御者たちが口々に叫んで、幌の上の黒猫を拝まんばかりに見上げる。
見たいものを見る、人間はそういうものだ。
ノクスが幌の上で胸を張った。尾だけがまだ膨らんでいた。
カイルが振り返って、私を見た。
「お前、さっき何か言ってなかったか」
心臓が一度、強く打った。
「い、いえ。独り言です。緊張すると、つい」
カイルは私を見て、ノクスを見て、ノクスの膨らんだ尾を見た。それから焦げた甲虫の残骸に視線を落とした。
四本の角。黒紫に焦げた切り口。視線がそこに数秒止まった。
視線が、私に戻ってきた。
「そうか」
納得していない声だった。追及する言葉を飲み込んだだけの保留の声で、剣を抜いて布を取り出すと甲虫の体液が薄く残った刃を拭い始めた。
「それより、あの三匹だ。壁から同時に出た。間隔が均等だった。野生じゃない」
私は黙った。
カイルが甲虫の死骸の脇腹を、剣の腹で軽く拭った。焦げた外殻の下から、淡く赤い幾何文様が浮かび上がる。人の手で彫られた、規則的な刻印だった。
「これ、儀式紋様じゃないか」
私の背筋に冷たいものが走った。
野生ではない――誰かが召喚したか、あるいは作ったものだ。
「カイルさん、その紋様、見せてください」
「お前、これが何か知ってるのか」
「いいえ。でも、気になって」
カイルが頷いた。それ以上は聞かなかった。
「カイルさん、あの甲虫を一撃で、すごいですね」
言ってから後悔した。
余計なことを言った。距離を縮める必要はない。
カイルの手が止まった。布を持ったまま、少し考えるような間があった。
「師匠がよかっただけだ」
「師匠?」
「もういない」
それ以上は言わなかった。剣を鞘に戻して、柄の古い傷に指が止まった。
――踏み込みすぎだ。
「ノクスも、今日は疲れてるみたいなので、カイルさんがいて助かりました」
幌の上のノクスが、顔を前足に乗せて目を閉じた。
「ふう。今日もよく働いた」
何もしていないくせに。
境界通路を抜けた。上層に出た瞬間、風が変わった。
視界が一気に開けて、眼下にヴィルヌアの街が積み木のように層を成して一望できた。空には浮遊塔が二本。細い影の帯を、中層の屋根に落としている。
幌の縁から、ノクスがその塔を見上げた。
「お前、あれ。覚えてるか」
「うん、でも、はっきりとは思い出せないの」
――あの浮遊塔の術式は、五千年前に私が組んだものだ。何かを封じた記憶がある。何を、までは、もう思い出せない。
「別に思い出す必要もない」
「そうなのかも」
ノクスが耳を前に向けて、リーラをしばらく見つめてから、幌の中に引っ込んだ。
先頭のシャルートが一頭、足を止めて首を伸ばした。結晶角が陽光を受けて虹を散らす。御者が手綱を引いて宥めた。
カイルが視線を戻した。
「足元、気をつけろ。まだ先は長い」
「はい」
叱られた記憶は山ほどある。でも、転ばないように叱られたことはなかった。
カイルが前を向いた。半歩前。外側。変わらない位置。
ノクスが幌の縁から顔だけ出して、私を見下ろしていた。
金色の目が細まり、前足を舐めて、引っ込んだ。
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