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第69話 「あんたが、危ないって言ってるのッ!」

 俺は宿屋の二階で、壁に背をつけて盾を抱えていた。一階の酒場には客が三人。全員結社の末端だと、事前にガーレンから聞いている。接触はしない。狙うのは、二階に居つく男一人だけだった。


 ミナが隣の部屋で着替えている。


 巡礼者風の装い、修道院の見習いが旅をしている体裁だ。


 ミナが囮で、俺が押さえる。役割は単純だった。だが、しくじればミナが危ない。盾の裏に彫った妹の名前を、親指で一度なぞった。落ち着け、と自分に言い聞かせる。


 段取りを確認しなければならなかった。


 合図は三つ。一つ目はミナが扉を叩く音。ノックだ。部屋に入れたことを意味する。


 二つ目はもう一度扉を叩く音。情報を引き出せた合図。俺が突入する。


 三つ目は決まっていない。


 扉に手をかけた。



「次の合図の段取りっす!」



 扉を開けた。ミナが立っていた。ブラウスを羽織りかけた姿だった。


 片腕が袖に通りかけて止まっている。革のキュロットだけ履いている。肩と胸が露わで、ブラウスの前が合わさっていない。


 一瞬、固まった。体が、勝手に直立不動になった。反射だった。


 背筋が伸びて、両手が体の横についた。盾を、床に立てかけた。


 頭の中が、真っ白になった。見るな、とだけ本能が叫んでいる。それなのに、一瞬目に焼きついたミナの姿が、脳裏から離れない。心臓の動悸が、抑えられない。よりによって、ミナさんだ。



「ご報告ですっ!」



 ミナの顔が、耳の先から首筋まで一気に赤く染まった。


 慌てて胸の前で両腕を交差させた、その勢いで、引っ掛かっていただけのブラウスが肩から完全に滑り落ちた。



「あっ」



 布が床に落ちる音。露わになった上半身を、ミナが反射で抱きしめた。



「拾うっす!」



 前に踏み出した。



「来るなッ!」



 ミナの手が腿のホルダーからナイフを抜いて、投げた。


 手が盾に伸びた。床から引き上げた盾の面で、ナイフを受けた。


 乾いた音が部屋に響いた。


 ナイフの柄が盾の縁に引っかかって、ゆっくり床に落ちた。



「危ないっす」


「あんたが、危ないって言ってるのッ!」



 ミナがブラウスを拾おうと屈んだ瞬間、緩んだままだった革のキュロットの腰紐が、片側だけほどけて下がった。


 顔が、今度こそ真っ赤になった。首が、直角に天井を向いた。頭の中が、また真っ白になる。天井の木目を、必死で数えた。



「天井見てるっす! 絶対見てないっす!」


「み、見たでしょ、今のは、絶対、見たでしょ」



 ミナの目に涙が滲んだ。怒りなのか羞恥なのか、区別がつかない種類の涙だった。腰紐を片手で押さえながら、もう片方でブラウスを掴み、背中を向けた。



「出てって、お願いだから、出てって」



 慌てて扉を閉めた。廊下に出て、壁に背をつけた。


 扉の向こうから、声が破裂した。



「ノックしろって言ってんでしょッ! バカッ!」



「はいっす」



 死ぬほど後悔していた。たった二回、扉を叩けばよかった。それだけのことが、なんであの瞬間、頭から抜けていたのか。馬鹿、というのは、まったくその通りだった。


 短い沈黙のあと、消え入りそうな声が続いた。



「次に来る時は、ノックして」



「はいっす」



「答えを、待って」



「はいっす」



 盾を握り直した手のひらが、熱かった。汗だった。顔の熱が、首まで降りていた。


 見ていない、と自分に言い聞かせた。だが、嘘がつけないたちだ。自分にも、つけなかった。


 三分後、ミナが扉を開けた。巡礼者の装いが完成していた。頭巾で髪を覆い、修道院の十字を胸に吊るしている。顔はまだ赤かった。



「行くわよ」



「はいっす」



 ミナが先に廊下を進んで、奥の部屋の扉に向かった。俺は廊下の角に身を潜めた。盾を片手に、扉の方の声に耳を澄ます。


 ミナが扉を三度叩く音。



「ごめんなさい、修道院の見習いです。献金のお願いに」



 扉が薄く開く音。男の声。



「面倒だな。一階で頼め」


「ええ。あの、皆さんお忙しそうで、マヌエル様、お元気でいらっしゃいますか?」



 短い間。男の声色が変わった。



「マヌエル様を、知ってるのか」


「うちの修道院でも、皆さんお名前を」


「ああ、アルシェロンのお偉いさまだ。もうすぐ大きな儀式があるからな」



 俺の感覚が、剣を握り合う時のものに切り替わった。ミナの声色が、一段、変わるのが廊下まで届いた。



「儀式。神聖教皇国アルシェロン」



 部屋の内側から、扉が二度叩かれた。合図だった。


 角を蹴って、廊下を駆けた。踏み込んだ視界の端で、ミナのナイフが男の肩を掠め、壁に突き刺さった。


 男が後ずさる気配。俺の盾が、男の退路に壁のように立った。



「動くなっす」



 男が椅子に縛り上げられるまで、三十秒もかからなかった。ミナの革紐の扱いは、修道院の子供たちの靴紐を結ぶ速度と同じだった。


 尋問は短かった。



「結社のネットワーク。ルグランド王国だけじゃない。神聖教皇国アルシェロンの中枢に、マヌエル様。南方のサフィアル交易連合、三大商会のうち二つは、もう内側まで取られてる。三カ国に跨る情報網を、マヌエル様が一手に握っておられるんだ」



 男の声が、震えを抑えきれずに割れた。



「ルグランド王国内の貴族でも、タレン伯爵家、ヴェルファス侯爵家、それから王城の侍従長ハルヴェリン卿。ロデリック国王の周りは、もう何年も前から押さえてある」


「目的は。人族だけによる新世界。マヌエル様はアルシェロンにおられる。儀式の生贄を確保した瞬間、三カ国同時に動く手はずだ」


「子供は」



 ミナの声が低かった。



「下層の孤児を攫ってたな。あれは」



 男が一瞬、答えを濁した。それから、力なく吐いた。



「遺跡だ。マヌエル様は古代遺跡を掘り続けてる。瓶を集めるためにな。狭い穴に潜らせる、子供の手がいる。大人じゃ入らない深い場所が、ある」



「使い捨てか」



 ミナの声が震えた。



「異種族の血が混じった連中から、優先的に使う。新世界に混ぜちゃならないからな。それに、孤児は、消えても誰も探さない」



 ミナの拳が、膝の上で白くなった。



「あたしの修道院の子たちが――遺跡の穴に、捨てられた、ってことか」


「殺されてはいない、と思うぞ。まだ働けるなら」



 ミナがナイフを抜きかけて、自分を抑えた。声が低かった。怒りとは違う何かが、ミナの奥からゆっくりと立ち上ってくるのが、俺にも伝わった。


 末の妹の顔が浮かんだ。三歳。つま先の開いた靴。あの子が同じ目に遭っていたら――そう思っただけで、盾を持つ手に勝手に力がこもった。


 俺は、盾だ。前に立って、後ろの奴を守る。それが俺の答えだった。


 でも、今ミナを苛んでいるものには、前に立てない。盾で受けられる刃じゃない。剣でも魔法でもない、もっと奥に刺さるものだった。


 何を言えばいいのか、分からなかった。言葉は、もとから得意じゃない。だから、ただミナの隣に立った。盾を構えたまま。せめて、隣にいる。すぐ横で、ミナの拳が震えているのが、見えていた。


 ミナが立ち上がった。椅子を蹴って、男に背を向けた。



「行くわよ。姐さんに報告する」


お読みいただき、ありがとうございました。

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