第68話 「追ってくる」
足音が追いかけてきた。近衛騎士団だった。
走っているのに、荒い息づかいが聞こえない。鎧の金属が擦れる音も、互いを呼ぶ声もない。
「侵入者を捕らえよ。侍従長を襲った賊だ」
声が、廊下の石壁に反響して、方角を失っていた。
カイルの手が剣の柄にかかった。
「殺さないで」
私が言うと、カイルは振り返らずに頷いた。
「分かっている」
近衛兵の先頭が曲がり角から現れた。三人。
長槍を構えているが、穂先が揺れていない。
目だ。
息が止まりかけた。陛下と同じ目をしていた。
瞳の中に光は入っているのに、何も反射していない。三人とも、同じ目だった。
結社は、近衛にも届いている。
カイルが剣を抜いた。走りながら、横薙ぎに振り抜いた。
剣身が、脈打った。
刀身に沿って光の弧が走った。カイルの手を離れ、廊下を薙いだ。三人の近衛兵がまとめて壁に叩きつけられ、槍が石の床を転がる音だけが残った。
カイルが自分の剣を見下ろしていた。何が起きたか、本人にも分かっていない顔だった。
「走れ」
ノクスの声で、二人とも動いた。
シャルロットの光壁が後方に展開した。追いついてくる第二陣を遮断する透明な膜が、廊下の幅いっぱいに広がった。
「長くは保たないわ。三分」
「十分だ」
カイルが走り、私が続く。ノクスが肩にしがみついている。
二階から一階へ階段を駆け下りた。窓の外は暮れかけた空で、正門の方角に馬車の灯りが見える。
ガーレンだ。
遠くから、声が聞こえた。
「捕らえろ! 俺の名で命じる!」
兄ヴァーンの声だった。カイルの足が、一瞬だけ遅れた。
近衛より先に、結社が手を打っていた。回廊の柱の影に張り付いていた黒い外套の男が、カイルの遅れたその瞬間を待っていたかのように飛び出した。
剣がカイルの脇腹をかすめた。布が裂けて、血が滲んだ。
「カイル!」
振り返れない。カイルが剣の柄で結社員の顎を打ち上げ、倒れた体を踏み越えて走り続けている。
脇腹を左手で押さえたまま。
「平気だ」
平気ではない。
靴の先に血が一滴落ちていた。
その時。
回廊の角から、もう一人、結社員が躍り出た。剣が振り上げられて、カイルの背を狙った。
私の詠唱が間に合わない、と思った瞬間
黒い矢が一筋、宙を裂いた。屋根の上から放たれた一射が、結社員の喉に深く突き刺さった。
声もなく崩れた。仰ぎ見た。
夕闇の中、城の屋根の縁に金髪の女が立っている。煙草の先が赤く光り、赤い瞳がこちらを一瞥して口の端だけで笑った。
あの人。
ヴィルヌア中層の路地で、結社員の死体に座って煙草を吸っていた女。あの金髪と赤い瞳だ。
ふっと屋根の向こうへ消える。
「リーラ、走れッ」
カイルの声で、走り出した。正門が見えた。
ガーレンの馬車が寄せてある。幌の中から手が伸びた。
シャルロットが先に飛び乗り、幌から伸びた手がカイルを引き上げた。脇腹を押さえていた左手が一瞬離れ、馬車の縁に血の線が残る。
私は右手でドレスの裾を持ち上げて、その後に続いた。カイルが幌の中から怒鳴った。
「出せッ!」
ガーレンの鞭が鳴った。シャルートが低く喉を鳴らして駆け出した。
砂金色の毛並みが夕闇に沈み、結晶角だけが灯りを受けて鈍く光った。王城が遠ざかっていく。
窓の外、城壁の上に近衛兵の影が並んでいた。追ってこなかった。
追う命令が、どこからも降りなかったのだろう。カイルが窓の外を見ていた。
幌の隙間から、王城の尖塔が暮れた空に突き刺さっているのが見えた。
「母上」
小さな声だった。
「また来ます」
誰にも向けていない言葉だった。
王城の方角に落としただけの、祈りに似た声だった。ノクスが膝の上で丸くなった。
鈴が小さく鳴って、止んだ。
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