第66話 愛は弱さじゃない
カイルの腕が、力の入れすぎで震え、制御できなくなったように見えた。
「呪いの解き方を、教えてください」
思わず、そう聞いていた。
侍従長が視線を私に移した。初めて私を認識したような目だった。
「私には解けません」
迷いのない声だった。
「殿下を狙ったのではございません。陛下と兄上の中で、最も強い情を、最初に抜いた。それだけのこと。情の強さは、抜いた瓶の濁り具合で測れます」
カイルの顎が震えた。
「父上の一番強い情が、俺だったと」
「左様」
「瓶は、いくつある」
「数には限りがございます。マヌエル様が、古代の遺跡で集められた分しか」
――古代の遺跡。
レガリア期の遺物だ。
私の時代。私自身は触れたことがなかったが、「魂を留める器」と呼ばれて、神が禁じ、誰かが封印したはずの術式の道具。
それを、誰かが封印を解いて掘り起こしている。胸の底が冷えた。
侍従長の目が、わずかに細くなった。
「ですが第九使徒が、ようやく現世に現れたのです。逃せば、次の転生まで数百年」
私は呟いた。
「だから、急いでいるのね」
「ご明察です。全ては最終儀式のためでございます」
「最終儀式?」
「第九使徒を殺し、その力を以て新たな神を樹立する」
――第九。
声には出さなかった。
背筋に冷たいものが走った。
ノクスの尾が足首に触れた。短く、一度だけ。
侍従長が姿勢を正した。拘束されたまま、背筋だけは伸びていた。
「結社の目的は、人族だけによる、新しい神が創る世界です」
「異種族を排除する世界。ということね」
声が割り込んだ。振り返ると、シャルロットが扉の前に立っていた。
いつの間に戻っていた。侍従長は動じなかった。
「左様。異種族は、古代の力に親和性が強すぎる。彼らがいる限り、人族は永遠に二番手です」
「そして」
侍従長の目が、カイルに戻った。
「感情は、人を弱くする。マヌエル様はそれを既に証明された。陛下から愛を抜いた途端、国政は安定した。迷いが消えた。判断が速くなった」
カイルの拳が震えていた。
「愛を捨てた者だけが、神に近づけるのです」
「お前は」
カイルの声が、低く沈んだ。
「父上は、お前を信頼していた」
「左様。だから、私は陛下の最も近くにいた」
侍従長が微かに顎を引いた。
「最も信じてくださった陛下を、お救いするのが、私のご恩返しでございました」
カイルの全身が硬直した。拳が白くなり、剣を握る手が柄に食い込んでいた。
侍従長の目に嘲りも悲しみもない。
ただ、確信のような光だけがあった。
「殿下。あなたも、いずれ分かります。愛とは、弱さの別名なのです」
右手が動いた。
カイルの腕に触れた。
短く。
指先が袖に触れて、離した。
カイルが深く息を吸った。胸郭が大きく膨らんで、長い息が出た。
「お前の信念は、分かった」
声が一度割れて、戻った。剣の腹が、再び侍従長の喉に当たった。
さっきよりも、深く。皮膚に薄い赤い線が走った。
「四十年、隣にいた男が『ご恩返し』だと」
剣の角度が変わった。腹から、刃へ。
兜の縁から汗が一筋、顎を伝って落ちた。
「ふざけるな」
低い声だった。
侍従長は動かなかった。瞼すら閉じなかった。
「どうぞ、殿下。我らが立てる真の神のためなら、私はいつでも死ねます」
静かな声に、揺るがぬ確信が宿っていた。
カイルの肩が、一度大きく波打った。
「ふざけるなッ!」
剣が走った。
だが、侍従長の手は上がらなかった。私が封じた関節が、反射の一つも許さない。覚悟する前に、避けることすらできなかった。
刃が、動かぬ手首を断った。血が壁に散った。
床に転がった指先が、まだ動いている。侍従長の喉から、引き攣れた呻きが上がった。
最初は低く、すぐに高く、獣のような声に裏返る。
膝が折れて、両膝が床を打った。
残った左手で切断面を押さえに行ったが、押さえるほど血が指の隙間から噴いて、顔色が一気に抜けていった。口の端から唾液が糸を引いた。
神の側に立った目が、現世の激痛に大きく見開かれて、瞳の奥が震えていた。
「ぅ、ぐ」
神の名を呼ぼうとした唇が、痛みに掻き消された。
「ノクス、止血を!」
ノクスが足元から私の隣に寄ってきた。
侍従長の腕に前足を置いて、金色の目の瞳孔が縦に裂けた。
私の唇だけで一節を組むと、ノクスの口が同時に開いて、声の形だけを真似た。
十年来の癖だ。ノクスの前足から淡い光が染み出して、血が止まった。
皮膚が縁から閉じていく。
手は戻らない。
命だけ、繋いだ。
カイルを見上げた。
「殺さないでください」
斬り下ろした姿勢のまま、カイルの剣先は侍従長の喉のすぐ上で止まっていた。
引かれていない。
次の一撃に繋げる位置だった。
「死なせたら、この男の信念が完成します」
カイルが私を見た。青みがかった灰色の目が、殺意と私の声との間で揺れていた。
「リーラ」
一瞬の沈黙のあと、カイルが剣を引いた。
「お前、リーラに、感謝しろ」
声が、地の底から出ていた。
「リーラがいなかったら、お前の首が転がっていた」
侍従長は答えなかった。
床に転がる自分の手を、片目で見ていた。カイルが侍従長の目を見た。
「兄上の友愛で、剣を覚えた。母上の愛で、人の温もりを知った」
一度だけ、視線がこちらに触れた。
「リーラのおかげで、まだ俺でいられる」
胸の奥で何かが震えた。
「愛は弱さじゃない」
カイルが剣を完全に下ろした。
「俺の強さの、全部だ」
侍従長の動きが止まった。
一瞬だけ。
瞬きの半分ほどの間だった。
すぐに笑みが戻った。
「殿下。それが、あなた様の限界です」
カイルが剣を握り直した。
「瓶は、どこだ」
低い声だった。侍従長の目が、わずかに揺れた。
初めて見せた動揺だった。
「机の、二番目の引き出しに」
カイルが顎で示した。
私が引き出しを開けた。布に包まれた二つの瓶があった。
硝子ではない。
骨のような白い材質。
中に濁った液体が揺れている。
「返してもらう」
カイルの声に、侍従長が首を振った。
「無駄でございます。古代の遺物ですので、私には戻し方が分かりません。使い方はマヌエル様に教わりましたが、解き方までは、マヌエル様ならばあるいは、ご存知かもしれませんが」
「黙れ」
カイルが剣の柄を逆手に持ち替えた。柄頭を侍従長のこめかみに叩きつけた。
侍従長は声もなく崩れた。倒れた拍子に机の端を肘で払い、冷えた紅茶のカップが床に落ちて砕けた。
胸だけが上下していた。シャルロットが侍従長の残った左手首を革紐で縛った。
手慣れた動作だった。
「置いていくわ。動けないでしょ、しばらく」
カイルが頷いた。床に放っていた覆面を拾い上げ、慣れた手つきで結び直した。再び護衛剣士の姿に戻る。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語を見届けたいと思ってくださったら、ブックマークと★で、そっと背を押していただけると嬉しいです。毎日更新しています。




