第65話 「二度目はない」
侍従長の私室は、王城の東翼三階にあった。扉の前で息を整えた。
カイルが壁際に立ち、剣の柄に指をかけた。ノクスが私の肩から降りて、床に着地した。
部屋の中に、暖炉があるはずだった。火が入っていなかった。
扉を開けた瞬間にわかった。暖炉の灰が冷えきっている。
火を入れる習慣を、この部屋の主は忘れたのか。それとも、温もりを必要としなくなったのか。
本棚の書物は背表紙が均一に揃い、一冊も傾いていない。最近触れた手の跡がなかった。読む者のいない本棚は、飾りと変わらない。
部屋の隅には、半分残った紅茶のカップ。表面に薄い膜が張って、冷えきっている。捨てる者も、いなかった。
カイルが暖炉の裏側に身を隠した。
私は窓際の重い帳の陰に立った。
ノクスが私の足元で丸くなった。
足音が近づいてきた。
扉が開いた。
侍従長が一人で入ってきた。
白髪の混じった灰色の髪を後ろに撫でつけた、六十がらみの男だった。
仕立てのいい黒い上着に、胸元に小さな王家の紋章。
目は細く、口元は引き結ばれていた。
背後に誰もいないことを確認してから、カイルが動いた。
半歩。それだけで侍従長の背後に回った。
腕が首に巻きつき、剣の腹が喉元を押さえた。
「声を出すな」
覆面の下から、低い声。
侍従長の体が硬直した。
唇だけで、短い一節を紡いだ。
声にならないほど小さく、古い言語。
ノクスの瞳孔の奥が一瞬紫に揺れた。
侍従長の四肢から力が抜けて、手足の関節だけが封じられた。
喉から上の自由は、残してある。
話させるためだ。
カイルが覆面を外した。侍従長の目が見開かれた。
「カイル殿下、生きておられたのですか」
驚きの表情は見えたが、恐怖の色が薄い。
むしろこちらを観察するような目だった。
「答えろ。お前は結社の手駒だな」
カイルの声は平坦だった。感情を押し殺している声だった。
侍従長の口元が、わずかに動いた。
「手駒ではございません」
間があった。
「お救いしているのです。この国を」
カイルの腕が硬くなった。剣の腹が喉元を押す力が増した。
「何を」
「殿下」
侍従長の声は静かだった。
喉を押さえられているのに、言葉の一音一音に揺らぎがなかった。
「あなたがご存知ない間に、この国がどれほど傾いたか、お分かりですか」
カイルの呼吸が変わり、短くなった。
「陛下は、優しすぎたのです」
侍従長が目を閉じた。喉元の剣を受け入れるように。
「貴族の腐敗を見ても、温情で済ませた。飢饉が来ても、強い決断ができなかった。異種族との戦の機運が高まっていた時も、迷い続けた」
カイルの指が白くなっていた。柄を握りすぎている。
「父上は」
「国は、もう保たないところまで来ておりました」
侍従長が目を開けた。カイルの目をまっすぐ見た。
「そこへ、マヌエル様が来られた。『新しい神が必要です。この国を、新しい時代に渡すために』と」
「マヌエル」
「私は、信じました。優しい王では、もう国を建て直せない。だから、捧げたのです」
カイルの腕が震え始めていた。
「何を、捧げた」
侍従長の声が一段低く沈んだ。
「陛下の。息子への愛を」
空気が凍った。
「何の話だ」
カイルの声が低かった。
「左様。私が、瓶を使いました」
「瓶」
「陛下から息子への愛を奪った瓶。古代の遺跡からしか出土しません。人の手では作れない触媒です。マヌエル様から賜ったものを、この手で」
カイルの膝が一瞬揺れた。
「だから、父上は、俺を」
侍従長は答えず、代わりにもう一つ告げた。
「兄上からも、弟への愛を奪いました。それも、瓶に」
カイルの呼吸が止まった。
「兄上の」
「左様」
カイルの肩が、わずかに震えていた。
泣いてはいない。
泣くより深い場所に、何かが沈み込んでいくような震え方だった。
「なぜだ」
低い声。剣を握る手は震えていたが、声は割れなかった。
「お前は、父上に仕えていた。四十年、隣にいた。なぜ」
侍従長の口元が、初めて微かに歪んだ。
笑みのようだった。
「殿下。私は必要な犠牲を選んだのです。今でも、間違いだったとは思っておりません」
カイルの剣の腹が侍従長の喉から離れた。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語を見届けたいと思ってくださったら、ブックマークと★で、そっと背を押していただけると嬉しいです。毎日更新しています。




