第62話 「ひとりで行く」
兜の中で、俺は息を整え直していた。中庭の薔薇園に通じる回廊に出たところで、シャルロットが足を止めた。
「ちょっと、寄るところがあるの。侍従長の部屋で会いましょう」
返事を待たずに、シャルロットが背を向けた。
足音が遠ざかっていく。俺とリーラが、回廊に残された。
窓の外、中庭の花壇に、赤と白の薔薇が交互に咲いていた。陽光の中で色だけは整っているのに、香りがしなかった。
風は吹いている。なのに、薔薇の匂いが乗ってこない。
花壇の奥。薔薇の根元に、一人の女性が座っていた。足が、止まった。
膝を抱えていた。髪が肩に垂れている。銀を帯びた金髪。品のある横顔。年齢は四十代の半ば。ドレスの裾が土に触れているのに、気にしていない。
母上。
声を立てずに泣いていた。涙が顎を伝って、膝の上に落ちている。拭う仕草も忘れている。泣いていることすら自覚していないような、そういう涙だった。
兜の中で、息が止まった。横でリーラも動かなかった。ドレスの裾を握ったまま、ただ立っていた。
この王城で、母の涙だけが生きていた。
枯れかけた百合も、無言の使用人も、暗い灯火も、何もかもが冷えきったこの場所で、母の涙だけが、まだ温かかった。
王妃が顔を上げた。涙に濡れた目が、回廊に立つ二人を見た。
護衛剣士の兜。藍のドレスの令嬢。
目が、こちらの兜に留まった。一秒。二秒。
母上、俺だ。
声にならない呼びかけが、喉の奥で潰れた。兜の面頬の隙間から漏れたなら、母は気付いただろうか。三年間、毎夜思い出した声を、母は覚えていてくれているだろうか。
母が、また下を向いた。気付かなかった。息子の目を見て、知らない護衛剣士だと判断して、また自分の膝に視線を戻した。
篭手の中で、剣の柄を握る拳が震えた。革が軋む音が、自分の手の中だけで鳴った。兜の縁の内側で、自分の顎が震えているのが、肉の奥から伝わった。
――その時。
横からリーラの細い指が左手に絡んで、強く引かれた。引かれるまま足が動き、回廊を曲がる頃には、母の姿は壁の向こうに消えていた。
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