第61話 「目を伏せろ」
俺は、護衛剣士の兜の中で、息を整えていた。鉄の匂い。覆面の縁にこびりついた汗の匂い。三年離れていた間に、兜の中の世界に慣れすぎてしまった自分が、いる。
門前で、二人の令嬢が並んで立った。シャルロットが一歩前に出て、通行証を差し出した。半歩遅れて、リーラがその隣に並ぶ。藍のドレスの裾を右手でわずかに持ち上げ、副木の左腕を胸の前で支えるようにして、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。普段ローブで歩き回っている娘とは、別人のような立ち姿だった。
「シャルロット・ド・ラヴェルン侯爵令嬢。並びにヴェイン侯爵家ご令嬢、リーラ様」
「以前の訪問記録で確認が取れております。ヴェイン家のお嬢様も、ご通行ください」
俺は二人の半歩後ろで、剣の柄に手を添えていた。護衛剣士の位置だ。
門衛の目が、シャルロットの顔から動かない。
三年前なら、あの者たちは俺の顔をひと目見ただけで膝を折ったはずだ。
覆面越しでも気配で気付いた者もいただろう。今は、俺の存在ごと素通りしている。
二人目の門衛の目が、シャルロットの隣に立つリーラに、わずかに引き寄せられた。一度。一度では済まなかった。二度。三度。視線が、そこに引っかかって戻ってこない。
リーラか。
兜の中で、舌の根が固くなった。夜会で何度か見かけたことはあった。遠目に、人形のような令嬢だと思っていた。だが出会った頃の俺には、銀髪の医者見習いにしか見えなかった。夜会の時とも、違う。
半歩、斜め後ろに寄った。護衛の所作のつもりだった。
嘘だ。
門衛に「目を伏せろ」と言いたかった。
第二王子の名で。今日の俺には、それができない。
リーラは視線を集めることに慣れているのか、気にもせず、まっすぐ前を見ている。
悟られなくてよかった。
門をくぐった瞬間、空気が変わった。俺の家の空気じゃなかった。
生まれてから十六年、毎朝目覚めた場所。父の咳払いが響いた朝食室。兄と剣を打ち合った中庭。母が紅茶を淹れる音が、回廊の隅まで届いた頃の空気。その空気が、今はない。
石造りの回廊に差し込む光が白すぎた。壁の花瓶の百合が首を折るように萎れている。花弁の縁が茶色く変色して、水が替えられた形跡がなかった。三年前の侍女頭なら、午前のうちに全部入れ替えていたはずだ。
廊下を擦れ違う使用人が二人、三人。足音だけが響いた。誰も目を上げない。誰も挨拶を交わさない。頭を下げる所作だけが自動的に繰り返されて、顔がなかった。
壁の灯火が、弱い。油が十分に注がれていない。炎が小さく揺れて、廊下の半分が影に沈んでいた。
胸の底で、何かが軋んだ。
三年前、城を抜け出して死んだことにしてから、ずっと「いつか帰る場所」だと思っていた。
半歩後ろで、ドレスの裾が床を擦る音がした。藍の生地の重みが、リーラの歩幅をいつもより小さくしている。さらにその後ろ、ノクスの鈴が小さく一度だけ鳴った。シャルロットの背中が、半歩前にあった。背筋は伸びている。だが肩のラインが、いつもより一段固い。
双剣の柄に添えた手が、握りすぎてかすかに震えている。
彼女も、感じている。
回廊を二つ曲がった先で、人影が見えた。遠い。
廊下の奥、窓際の光の中に、一人の男が立っていた。侍従に支えられて歩いている。歩幅が狭い。足の運びが不自然に等間隔だった。機械のように。
背は高い。肩幅がある。
かつては威厳のある体躯。
父上。
拳が、勝手に握り込まれた。
柄革がきしむ音が、自分の手の中で鳴った。
息を止めた。
覆面の中で、自分の呼吸音だけが鼓膜を打った。
父王が、こちらに視線を向けた。
目が、何も映していなかった。生きているのに、中身が抜けている。三年前、城を出る朝、振り返って最後に見た父の目とは、別の生き物の目だった。
横で、リーラの息が一瞬、止まった。
「あの目」
隣から、低い呟きが漏れた。普段の彼女とは別人のような、冷たい声だった。
「街道の終わりで、井戸の縁に座っていた老人」
俺には意味が分からなかった。だが彼女の目が変わった。父の何かに、気付いている。
リーラの肩で、ノクスが短く鳴いた。それに応えるように、リーラが小さく頷いた。聞き取れない一語が、彼女の唇から漏れた気がした。
父王が侍従の方に視線を移した。
俺の方を――兜で顔を隠した護衛剣士の方を――見なかった。
素通りした。父が、息子の存在に気付かなかった。
いや、違う。
気付かなかったのではない。気付くための何かが、父の中から抜き取られている。そう見えた。
歩調が乱れた。半歩分、足が遅れた。すぐに取り戻した。兜の中で歯を噛んだ。鉄の味が、舌の根に滲んだ。
「行こう」
低い声しか出なかった。喉の奥で潰した、自分でも知らない声だった。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語を見届けたいと思ってくださったら、ブックマークと★で、そっと背を押していただけると嬉しいです。毎日更新しています。




