第59話 カイル殿下
別邸の居間に朝日が差し込んでいた。地下水道での根源魔法から、ひと月が経っていた。
シャルロットが、一人の男を顎で示した。
「紹介するわ。ガーレン。ここ数年、私とカイルの間で連絡を取り合ってくれていた男よ」
革の外套、左頬に薄い古傷。
外套の留め金に翼竜の紋。以前カイルに告げた「屋根の上の男」は、追っ手ではなくこの男だった。
顔を合わせて言葉を交わすのは、これが初めてだった。
台所の扉が開いて、白い兎耳が朝の光を透かした。フィオレが盆に茶器を載せて入ってきた。
石壁に蔦が絡み窓枠の塗装が剥げかけた古い別邸だが、フィオレが来てからは隅々まで手が行き届いていた。長机の脇まで来たところで、フィオレの兎耳がぴんと立った。ガーレンと目が合ったらしい。革の外套をまとった、いかつい男が居間にいれば、そうなる。
盆の上で茶器がかたかた鳴った。
「あっ、えと」
兎耳が後ろにぺたんと倒れた。盆を胸の前に抱え直して、小さな声を絞り出した。
「フィオレ、です。こちらのお屋敷の、お世話をしています。あの、奥様に、リーラさまのお母様に、ハイレドンから連れてきていただいて、それからずっと、ここに」
言い終わる前に自分の声の大きさに驚いたのか、兎耳が両方ぱたぱたと動いた。
「あ、すみません、聞かれてないのに」
ガーレンが外套の襟を直しながら、低い声で言った。
「ハイレドンか。いい茶葉が採れる町だな」
フィオレの兎耳がぴくっと片方だけ起き上がった。
「知って、るんですか?」
「昔、仕事で何度か。あそこはお前みたいなのが多かったな。港の朝市に、兎人族の婆さんが出す茶の屋台があった。まだあるか?」
「あ、ミルタおばあちゃんの! あります、あります!」
両耳がぱっと立った。盆を持ったまま半歩前に出て、すぐ足を戻した。
ガーレンの口元がほんの少しだけ緩んだ。
「お、お茶、どうぞ、苦いのが関節に良いって、奥様に教わりました。リーラさまのお怪我に、効くといいんですけど」
茶器を置く手がまだ少し震えていた。ノクスが窓辺から金色の目だけで見ていた。尾の先が一度だけ揺れた。
フィオレは小走りで台所に戻っていった。兎耳が扉の隙間に挟まりかけて、慌てて引っ込んだ。
居間の中央に寄せた長机の上には、ガーレンが広げた王都の地図が載っていた。
フィオレが置いていった茶を右手で取った。
副木に固定された左腕が椅子の肘掛けに当たって鈍く痛んだ。あと一か月は外せない。
一口含むと苦かった。舌の奥に渋みが残って、そのあとに冷たい清涼感が喉を抜けた。フィオレの言った通り、関節の強張りが少しだけ緩んだ気がした。
カイルが入口の柱に背を預けていた。フレイムソードの柄を握る指が、今朝は少しだけ強い。
シャルロットは窓際の椅子。包帯は取れたが、まだ左の手首を庇っていた。
トールは盾の横にしゃがんで、裏に彫った妹の名前を親指でなぞっている。その斜め後ろでミナが腕を組み、投擲ナイフのストラップを指先で弾いていた。
ガーレンが口を開いた。
「王城内の結社側の内通者が絞れました」
革の外套の襟を立てたまま、地図の一点を指先で叩いた。
「侍従長。ロイス・ハルヴェリン。陛下の身辺を十五年務めた側近中の側近です。結社との接点を示す証拠が三つ。うち一つは、マヌエルとの私信」
マヌエル。あの声を思い出すと、首の後ろがぞわりとした。気持ち悪い、と体が先に拒絶した。
「侍従長が最有力、と」
カイルの声が、低かった。感情を押し込めた声だ。
父王の側近が結社に通じていた。その意味を、飲み込もうとしているように見えた。
「はい。殿下」
ガーレンが頷いた。
トールの肩が、わずかに強張った。盾の裏に置いていた親指が止まる。ミナの腕組みもほどけて、ガーレンとカイルの間を視線が往復した。
「殿下?」
ミナの声が、いつもより半音高かった。カイルがゆっくり振り返った。
「黙っていてすまない。ここまで一緒に来た以上、隠す方が誠実じゃない。カイル・エル・ルグランド。ルグランド王国の、第二王子だ」
トールが盾の縁を掴んで立ち上がりかけ、また腰を落とした。
「殿下、っす、? あの、その、俺、敬語が」
「いつも通りでいい。敬語なんかよりお前の盾の方が、俺は欲しい」
ミナが大きく息を吐いて、額に手を当てた。
「あたしらと並んで依頼受けてたカイルさんが、王子様、あんた、本当に、何しに来たのよ」
「結社を止めに来た。それだけだ」
ミナがしばらく天井を見上げて、それから諦めたように笑った。
「ま、いいわ。リーラ姐さんが連れてきた男なら、王子だろうが何だろうが、あたしは文句ないわよ」
トールが大きく頷いた。
「俺も、っす。父ちゃんの店で剣を預けてくれたっすから。それで十分っす」
カイルが立ち上がった。全員の顔を見てから、深く頭を下げた。
「身分を隠していたことを、詫びる。すまなかった」
頭を上げた。シャルロットが椅子の上で足を組み直した。
「話、進める? 時間がない」
トールが手を挙げた。
「俺とミナは、街中の中継支部を押さえてるっす。宿屋風の隠れ家、場所は特定済みっす」
ミナが続けた。
「幹部らしき男が一人、毎晩そこに戻ってる。叩くなら夜。裏の路地から回り込めば、人目につかない」
シャルロットが椅子の背もたれに体を預けたまま、唇の端を持ち上げた。
「面白いじゃない。久しぶりに血が騒ぐわ」
カイルが柱から背を離した。
「リーラ」
名前を呼ばれた。目が合った。
「どうする」
問いの形だった。でも、カイルの目は答えを知っていた。
あの地下で「結社を見つける。全部、終わらせる」と爪を立てた夜のことを、この人は忘れていない。
左腕が副木ごと、椅子の肘掛けで重く沈んだ。
「二つ、同時にやります」
声が思ったより静かだった。自分でも驚いた。怒りでも決意でもない。もっと深い場所から出た声だった。
「一つ目。侍従長の拉致。呪いの解き方と代償・触媒を吐かせて、呪いが解けるなら父王と兄上を取り戻す。アジトとマヌエルの居場所も同時に吐かせる。二つ目。街中の中継支部を制圧して、結社ネットワークの全容を掴む」
言葉が並ぶたびに、居間の空気が変わっていくのが分かった。ノクスの耳が動いた。カイルの指が柄から離れた。
「役割は。王城へ私とノクス、カイル、シャルロットの四人。ガーレンは外回りの馬車で待機。拠点攻略にトールとミナ」
トールが立ち上がった。盾が床を擦る音がした。
「任せてほしいっす」
ミナが肩をすくめた。
「言われなくても」
シャルロットが立ち上がった。椅子の脚に立てかけてあった双剣を取り、腰に差す。帯の留め金を慣れた手つきで締めながら、こちらを見た。
「私、王城に戻るのは久しぶりよ。顔パスが通るうちに使わないと」
カイルは何も言わなかった。黙って頷いた。
――昔、山脈を消した手がある。
自分の右手を見た。前世なら一人で全部やれた。今は副木を巻いた片手しかない。でも今は、一人じゃない。
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