第58話 蔦の絡む木戸
郊外の別邸に、荷を運び込んだ。
街外れの森の縁にある、ヴェイン家の古い別邸。母が嫁入り前に薬草学を学んだ場所で、今はフィオレが管理している。
苔の生えた石垣。蔦の絡む木戸。
低い屋根。
林の奥で、結社の地図には載らない場所だった。
フィオレが玄関先で待っていた。
白い兎耳に茶髪の少女。母が南方の港町で薬草を採っていた頃に出会って、連れ帰った子だった。
私と同じくらいの背丈で、温和な目をしている。
私たちの姿を見つけると、兎耳がぴんと立って、小さく一礼した。
部屋はすでに整えられていた。窓辺には母が昔残していった乾燥薬草の束が、まだ天井から吊るされている。
「魔女の家、みたいだな」
ノクスが窓枠の上で呟いた。
「うん。お母様も、若い頃ここで一人で過ごしたって」
窓辺にノクスを座らせ、革袋を椅子に置いた。
それだけで、新しい拠点の支度は終わった。
二階の寝室に上がった。ベッドに身を横たえた。
左腕の副木が、胴の上で重かった。
窓辺から、夜明け前の白い光が差し始めていた。天井の薬草が、揺れていた。風はないのに、揺れていた。
――カイルがいなければ、ノエルは、取り戻せなかった。
そう思ったら、涙が一粒、枕に落ちた。
「ノクス」
足元の毛並みが動いた。
「何だ」
ノクスが顔を上げて、続けた。
「泣くな。顔がぐちゃぐちゃだぞ」
「泣いてない」
「嘘をつくな」
ノクスの前足が、私の頬の脇に置かれた。爪は出ていなかった。
窓の外が白くなっていった。鳥が一羽、鳴いた。
朝が来た。フィオレが盆に手紙を載せて持ってきた。父からだった。蛇杖の紋章。指先で封を切った。
> リーラへ。
> ノエルは田舎の祖母の家に到着した。
> 元気にしている。
> 祖母様が喜んでおられた。
> 私と母さんは明後日には戻る。
> 父より
手紙を握りしめた。紙の端が指の間で皺になった。深く息を吐いた。窓から入る朝日が手紙の文字を白く照らしていた。
ノエルの声が聞こえた気がした。
「お姉ちゃま、ノエル、頑張ったよ」
小さな手。指切りの約束。針千本。
手紙を胸元に仕舞った。
扉が叩かれた。
「リーラ、入ってもいい?」
シャルロットの声だった。フィオレが扉を開けると、シャルロットが立っていた。包帯がまだ肩に巻かれていた。だが、ドレスを着ていた。
白金のサイドポニーが朝日を受けて揺れていた。顔色は、数日前とは別人のように血が戻っていた。
「シャルロットさん、まだ療養中では」
「もう動けるわ。私、回復は早いの」
口の端が上がった。お転婆な笑い。だが、目の奥には踊り場で三人の刺客を斬った女の光が残っていた。
ベッドの縁に座った。包帯の下の肩がわずかに引きつったが、顔に出さなかった。
「リーラ、聞いて」
「はい」
「私も戦うわ。あなたたちと一緒に」
声が、まっすぐだった。昨日、療養室の枕元で聞いた声とは、別の響きだった。
「ヴェイン家でじっとしているのは、もう無理なの」
シャルロットの拳が、膝の上で握り込まれていた。
「陛下を、ヴァーン兄上を、取り戻したい。ラヴェルン家の力を、結社を潰すために使う」
「ご家族は」
「父様には、私から伝える。密偵ガーレンを呼び寄せて、王城の情報網を作り直すわ」
「裏で算盤を弾く役は、ラヴェルン家が代々得意よ。でも」
口の端が、不敵に上がった。
「私の双剣、まだ仕舞うつもりはないの」
マルタが涙ながらに語った、踊り場の夜を思い出した。血まみれで三人を斬り伏せた人が、今、目の前で笑っている。口先だけの人間にはできない。
「はい」
「あんた、いい顔するわね」
シャルロットが笑った。豪快な、声の大きな笑い。侯爵令嬢の品が追いつかないほどの勢い。
直後に肩がひきつって「いったぁ」と小さく呻いたが、笑顔は崩さなかった。
「決まりよ。今日から私もパーティの一員」
「馬鹿王子の方は、私からあとで言っておくわ。あいつ、昔から私を止められた試しがないのよ」
シャルロットがこちらを向いた。
「リーラ。あんたを、可愛がるわよ。妹が、欲しかったの」
「え」
「決まり」
返す隙がなかった。シャルロットが立ち上がった。肩を庇いながら、扉に向かう。振り返って、不敵な笑みを浮かべた。
「シャルロット・ド・ラヴェルンの、本当の人生、始めるわよ」
扉が閉まった。廊下を歩いていく足音が、玄関の方角に下りていった。
階下から、別の声が重なった。
「あ、シャルロットさん、降りてきて大丈夫っすか」
「トールでしょ。リーラに聞いてるわ。盾の絶対防御の坊やよね」
「うっす」
トールの戸惑った返事と、ミナの低い声が続いた。
「ラヴェルン家のお嬢様ね。あたしはミナ」
「シャルロット・ド・ラヴェルン。よろしくね」
「お嬢様らしくない挨拶ね」
「お嬢様らしくないって、よく言われる」
「シャロ姐さんって呼ばせてもらうよ」
短い笑い声が三つ、玄関ホールに散った。三人とも、姿を見たのは初めてのはずだった。それなのに、最初の挨拶で互いの距離感が縮まっていくのが、二階まで届く声で分かった。
*
窓辺の薬草束を、見上げた。母が残していった、乾燥薬草の束。低い天井から吊られて、朝日に揺れている。
――母は、ここで学んだ。
なら、私もここから始める。結社を見つける。全部、終わらせる。
副木に、爪を立てた。
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